今日は、「世の中の仕組み」について語ってみましょうか。

「社会でしか生きられない人」ほど論理は通用しない、というお話です。

 

論理が通用しない人たち

世の中には「論理が通用しない人たち」っていますよね。

「こういう理屈で起きているから、こうする方がいい」とか、「こういうのはもはや無意味だ」と論理を伝えても、まったく聞く耳を持たない人たちです。

 

コロナウイルスの時も、そうでしたよね。

それだけでなく、学校や会社でも、無意味な校則とか、無駄でしかない手続きを続けている人たちがいるものです。

 

実のところ、そういう「論理が通用しない人は、世の中の大多数を占めている」と知ることで、現実的な対処ができることもあるように思います。

すると、変えられないことを変えようとするよりも、うまく自分なりの対処ができて、安心を得て生き延びやすくなるかもしれません。

 

「理屈で行動を変えられる人」は少数派

私が思うに、世の中では「理屈で納得して、行動を変えられる人」というのは、少数派のように思います。

 

まぁ私がよく言う例で、「社会維持型と境地開拓型」という性格分けがあります。

社会維持型は、自分軸がなく、社会で歯車になって生きるのに適していますが、同時に「社会でしか生きられない」タイプです。

一方で境地開拓型は、社会の歯車にはなれない性質ですが、自分軸があって、目的指向で動けるタイプです。

そして、社会では社会維持型が大多数で構成されていて、境地開拓型はごく少数です。

 

境地開拓型ほど「理屈で行動を変えられる」

その場合、境地開拓型の人ほど、「理屈で納得して、行動を変えられる」んですよね。

だって、境地開拓型ほど目的指向なので、うまくいく理屈や原理に従うほど、目的を達成できます。

だから、伝統とか風習とかさして関係なく、「自分の目指すものには、これが一番効果的だから」と、合理的に判断できます。

 

だけど、そういう「理屈で行動を変えられる人」というのは、実はごく少数しかいません

 

社会維持型は、「昨日と同じように、今日も生きること」がメイン

一方で社会維持型の人ほど、「社会や状態を維持すること。昨日と同じように今日も生きること」が究極の目標です。

すなわち、彼らにとっては、「目指す目標」なんてないわけです。

まぁ、「いい地位を得たい」という目標はあったとしても、それも「社会が変わらない前提でのいい地位」です。

 

すると、彼らにとっては、「こう変えれば、未来はよりうまくいく」とか「こう変えれば、未来のクラッシュを防げる」なんて理屈はどうでもいいと分かります。

というのも、そういうのは「社会の状態を変えること」ですからね。

彼らにとっては、「未来にクラッシュが来ようが、昨日と同じように今日も生きること」の方が重要なわけです。

 

そして、そういう「昨日と同じように、今日も生きる」という人たちが、社会の大多数だということです。

 

理屈を語っても、無駄

これが分からないと、「境地開拓型の人が、社会維持型の人に、理屈を語って説得しようとする」という無駄なことを引き起こしやすいように感じます。

そもそも理屈を語っても、無駄なんですよ(笑

彼らは「雰囲気」とか「周囲がこうだから」を判断材料にして生きますからね。

ここの割り切りが重要かな、と思ったりもします。

 

その場合、もし広めたいのであれば、「同じ境地開拓型に、理屈を伝えて広める」という部分に集中する方が、効果があるように感じます。

それはある意味、「大衆を見捨てて、一部の理解できる人だけを助ける」とも言えるでしょう。

 

でもそうする方が、うまくいくこともあるように思います。

だって、行動を変える人が多くなると、次第に「実際の効果」に着目され初めて、その「合理的な雰囲気」が大衆に浸透してゆきますからね。

そういう「まずは助ける序列を作り、大多数を見捨てること」も、新たな流れを作る一つの方法かと思います。

 

長期的には同じこと

ちなみに私の中では、こういうのは「長期では結局同じことだ」と思ってます。

というのも、失敗も、また学習ですからね。

大きな失敗やクラッシュは、確かに短期的には痛みですが、それだけ長期的な学習や対策にもなります。

もし周囲に失敗をさせないでいると、「相手が経験や判断能力を失うことで、長期では大きなクラッシュが起きうる」となるものです。

 

確かに一般大衆の人ほど、これから来る経済的なクラッシュとか混乱で、多くの人が苦しむでしょう。

歴史を学べば分かることなのに、学ばないことで、同じ過ちを繰り返すこともあるでしょう。

 

でも、長期的には少しずつ経験を身につけていって、「苦しんだ中から学び、フィードバックを得て、上昇してゆく」というスパイラルを描いてゆきます。

それは、私たちの世代だけでなく、もっと長い目線で成長してゆくことでしょう。

その超長期の成長を信頼できるかどうかかな、と思ったりもします。

 

私たちが正しいとも限らない

それに、私たち自身が正しいとも限らないものです。

もし完璧にできているなら、私たちはすでに億万長者のパーフェクトな幸せ者になれているはずですからね(笑

 

なら、「周囲も自分も不完全でいい。その中から模索していい」というのが私なりのスタイルです。

私たちは自分の信じる道を進んでいいし、周囲にもそれをさせればいい、ということです。

で、「そして自分が最高に豊かになれば、それが周囲への説得力となって、影響力を持つだろう」という考え方です。

 

なら、「結局同じことになるなら、好きにすればいい」とできて、自分は自分なりの対応だとか、真理の探究に打ち込めます。

すると、「変えられない人を変えようとする無駄な苦しみ」を手放せるかな、と思ったりもします。

 

まとめ

なので私の中では、そういう「助ける人の優先度」をつけてもいいように感じます。

論理が通用しない人に、論理を語っても無駄ですからね。

 

境地開拓型の人ほど、より真理にたどり着きやすいし、行動を変えやすいものです。

その場合、まずは論理が通じる人に論理を語って、実際に対応してもらえれば十分かなと。

 

論理が通用しない人も、実際にクラッシュや痛い目を見てを経験すれば、目を覚まします。

目を覚まさなければ、滅びるだけです。

同時に、もし私たちの目が曇っていて、真実を見誤っていても、私たちが滅びるだけです。

なら、後は「自分の信じる道を進めばいい」とできて、それが後世に豊かさを残すことになるかなと思います。

 

この辺が分かると、「自分自身から豊かになるのでいい」とできて、周囲へのコントロールを手放せて、自分の豊かさ作りに集中できるかもしれません。

 

ということで今日は、「社会でしか生きられない人」ほど論理は通用しない、というお話でした。

今日はここまで~。

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