今日は、生き方のお話です。
「どうすれば統合失調症を受け入れられるか」と問われた場合、私ならどう答えるか、というお話をしてみましょう。
統合失調症を、どうすれば受け入れられるのか
先日、こういう質問をいただいたので、ご紹介。
僕は統合失調症、精神障害を抱えています。自分の特徴をありのままで受容できたら、生きるのが少し楽になると、頭ではわかっています。
でもどうしても受容できないでいます。(中略)
受け入れるための方法や現状の打開策のヒントを教えてください。
内容を簡単に言うと、「統合失調と、その苦しみを抱えているが、どうすればそれを受け入れられるか」ということですね。
相当疲弊している状態
質問の文面からは、質問者さんはすでに相当疲弊しているように感じたんですよ。
なので、「どうすればよくなるのか、分からない」と希望を失っている状態なんじゃないかな、と予想したりもします。
「統合失調症である」と明快に分かっているので、きっとその辺の診断は受けているんでしょうし、今までいろんな治療をしてきたんだろうと思います。
それにその上で、私のような医療関係者ではない人にまで質問をしてくるということは、おそらく「普通の治療」ではほとんど効果がなかったんだろうと思います。
それは病なのか、受け入れられるものなのか
で、まずは言っておくと、私は統合失調症の治し方なんて分かりません。
そして私は、それが「病」であるかどうかも分からないし、「治すべきもの」なのかどうかも分かりません。
そして、質問者さんは苦しみを抱えている状態ですが、その「苦しみを受け入れること」も、私にはできるかどうかは分かりません。
というのも、基本的に「苦しみは受け入れられないもの」だからですね。
たまに「痛みを受け入れましょう」みたいなことを言う医者や専門家がいますが、「痛みを受け入れましょう」と言っても、痛いものは痛いでしょ(笑
そもそも、痛みは痛くて受け入れられないから、痛みとして感じているわけで(笑
私からすると、それってただ単純に、「我慢しろ」と言っているに過ぎないように感じます。
でも、医者が素直に「私には治せません」と言えないので、ごまかして「受け入れる」みたいな精神的な問題として、目くらましをしているだけのように感じます。
希望を持ち続けることならできる
そんな風に、私には治し方も受け入れ方も分かりませんが、希望を持ち続けることはできるように感じます。
なので今日は、そういう希望を持ち続けることについて、お話ししてみましょう。
その結論を一言で言うと、「精神的に苦しい時に、『筋トレを試してみよう』とできる人は、希望を持ち続けられる」ということです。
いや、何を言っているのか意味不明だし、別に筋トレを進めているわけでもないんですが、ちょっとまぁ話を聞いてください(笑
私たちは因果関係を誤認することもある
私たちは「現状から出たい」とか、「問題を解決したい」と願って対処をしますが、うまくいかないことが多くあるものです。
それは、私たちが何らかの「現実」を誤認しているからですね。
もし私たちが現実を正しく認識していれば、「これを対処すれば、こうなる」と分かって、すぐに適切な対処ができます。
つまり、私たちは現実を正しく認識できていない、言い換えると「思い込みを持つ」から、うまくいかないわけです。
そして私たちは、「因果関係」を誤認することもよくあるものです。
例えば、精神的に苦しかったとしましょうか。
その場合、私たちは「精神的に苦しいから、精神の問題だ」と思いますよね。
それで、いろいろ精神的な本とか、心理学本を読んで、治療法を試したりして対処してゆくわけですが。
それ以外の原因もありうる
でも、実はそれ以外の原因もありうるものなんですよ。
例えばよくあるのが、「台風や低気圧が来て、気圧が下がって、精神的にストレスがたまった」とか。
「体温が下がって、冷えが起きることで、免疫力が落ちて、心が沈んだ」とか。
他にも、「食べ過ぎで、胃腸などの消化器官に負担がかかることで、気分が落ち込み続ける」とか。
で、実際に気圧が落ち着いたり、体温や胃腸への対策を試してみると、少し気分がよくなったり、解決することもあるんですよ。
実際に私の場合でも、「慢性的な下痢を抱えていたけど、座椅子をやめていいイスにしたら、姿勢がよくなって下痢がぴたりと消えた」みたいなことがありました。
つまり、私にとっての「胃腸が原因の問題」は、実は胃腸が根本原因ではなく、イスだったり姿勢が問題だったと。
そういう風に、私たちは「精神的に苦しいから」と言って、「精神が問題の根源である」とは限らないと分かります。
気圧の問題かもしれないし、体温とか消化器官の状態、内臓の問題だったり、食べ物、水、環境、衛生状態、人間関係、筋力、睡眠、姿勢、イスや机、いろんな要因が考えられます。
「統合失調症が問題の根源である」とは限らない
同じように、統合失調症を抱えているからといって、「統合失調症が問題の根源である」とは限らないように感じます。
私が質問者さんの文面を読んでいると、「統合失調症が、問題のすべての根源である」という風に、因果関係を決めつけすぎているように感じたんですよね。
「これさえ治せれば、すべてがうまくいくのに」みたいな。
実際に、人は疲れるほど、「これさえなんとかできれば」と、一つの要因に絞り込みやすくなります。
それは当然で、人は疲れるほど体力がなくなるので、一番の主となる原因に集中することで、効率的に対策ができるものです。
実際に、人は疲れるほど「お金さえあれば、すべてが解決するのに」とか思うものです。
でも、前述のように、私たちは因果関係を誤認することが多くあるわけです。
その場合、「ちょっと統合失調症へのこだわりから離れてみよう」とするのもいいかもしれません。
別の要因が見つかることもある
確かにこれは、疲れている時にはしんどいことなんですよ。
だって、それをするだけで、何が問題なのかさっぱり分からなくなるんですから。
食べ物が問題なのかもしれないし、内臓が問題なのかも、人間関係なのか、生き方なのか、環境なのか、はたまたイスか机か、原因なんて無限に思いつきます。
でも、そこでとにかく「これが主要因かな?」と当たりをつけて、試してみるわけですね。
そういう、適当な推測と、優先順位付けをして、対処してみると。
だから、少なくとも希望を持ち続けられる
すると、たまに「少し楽になった」というものが出てきます。
実際に筋トレをしてみると、楽になることもあるんですよ(笑
なら、しんどいことはしんどいんですが、少なくとも希望は持ち続けられます。
だって、「対処しうる要因」は、山ほどあるんですから。
手段がある限り、希望はある
そもそも、絶望というのは、「手段が完全に潰えて、どうしたらいいのか分からない」という状態のことです。
「自分には、もう何もできることがない」と感じるから、絶望してしまうと。
ただ、それは裏を返すと、「試せる手段がある限り、希望は持ち続けられる」ということです。
だから、「精神的に苦しい時に、『筋トレを試してみよう』とできる人は、希望を持ち続けられる」ということですね(笑
当然最初ほど「心の問題なのに、なんで筋トレをすんねん! 関係ないやろ!」とかツッコミを入れたくなるものです。
でも、試した後で、その心と身体のつながりに気づくこともあるんですよ。
「実は心は、身体の状態からも影響を受けているんだ」みたいな。
まとめ
そういうこともあって、「これが根源の問題だ」ということから、少し離れてみるのもいいように感じます。
「精神が苦しい場合に、まったく無関係に見える筋トレを試してみよう」というノリですね。
質問者さんの場合、「少し統合失調症から離れてみましょうよ」ということです。
私が見たところ、「統合失調症が諸悪の根源である。これさえ治せれば、すべてがうまくいくのに」と決めつけすぎているように感じます。
現実では、ちょっと場を変えたり、生き方を変えるだけで、がらりと楽になることもあるわけです。
時には、ウォーキングを始めたり、食べ物や食べ方を調整してみたり、掃除や模様替えをしたり、そういう「一見ではまったく無関係な要因」で、楽になることもありうると。
すると、その中から「統合失調症は諸悪の根源ではなかった。これが問題だったんだ!」と目からウロコが落ちるものが見つかって、未来が開けるかもしれません。
実際に私が見ていても、精神的に苦しい時に筋トレを試せるタイプの人は、強いんですよ(笑
強いというか、「希望を持ち続けられる」ということですね。
そしてそういう「多くの要因を思いつける人」ほど、長期的には問題を少しずつでも解決できているように感じます。
私が好きなのは、そういう「希望を持ち続けて、もがきつつも、試し続ける生き方」ですね。
すると、少なくとも希望を持ち続けられるし、それが「統合失調症を治すこと」や「痛みを受け入れること」の代替になるかもしれません。
ということで今日は、「どうすれば統合失調症を受け入れられるか」と問われた場合、私ならどう答えるか、というお話でした。
今日はここまで~。