今日は、生き方のお話です。
「自分を変えて、いろんな環境で生きたい」タイプの人は、「社会を渡り歩いてよくしてゆく」使命があるのかも、という仮説をお話ししてみましょう。
「自分を変えて生きたい」というタイプ
「いろいろ移住して、いろんな文化に触れてみたい」とか、「いろんな場所に住んでみたい」、「自分を変えてゆきたい」っていうタイプの人って、ごく少数ですが、いると思うんですよ。
特徴的なのが、「自分をどんどん変えたい」という性質を持つことですね。
普通は、「大人になったら、基本的に人間関係も文化も生き方も変えなくなって、昨日と同じように生きたい」となるものです。
なのにごく一部の人は、なぜか「ずっと変わり続けたい」という欲求を持ちます。
まぁ、「移住をしたい」というタイプの人は、結構いるかと思います。
元々人間は、狩猟採集時代には、中規模集団(10~30人ぐらいの集団)を作って、移動しつつ暮らしていましたからね。
少し余談ですが、その名残が、「小中学校のクラス分け」の人数に出ているんじゃないかと予想しています。
つまり、多くの人は「小中学校のクラス分け」ぐらいの規模の人間関係で生きるのが心地よいんだと、DNAに刻まれているんじゃないかなと。
なので、そういう社会に属しつつ、「たまには旅行をしたい」とか「同じ社会の中で、移住をしたい」ということは多いでしょう。
「人間関係、文化、生き方も変えたい」願う少数派
でも、「属する社会や人間関係、文化、生き方も変えたい」という部分まで「変えたい」と願うのは、だいぶ少数派のように思います。
こういうタイプの場合、一つの場所に住み続けていたら、少しずつ苦しくなってきます。
で、「移動したい」とか「他の場所に住んでみたい」、「新たな生き方をしてみたい」と願うようになります。
そしていろんな場所に移動して、工夫をして適応して、自分を変えながら生きるのが心地よく感じるタイプです。
いやまぁ、実は私も結構こういう性質を持っているんですが(笑
だから、常に新しいことをしたいし、自分を変えていきたいタイプだったりします。
じゃあなぜこういう性質の人がいるのか、ということです。
で、結論から言うと、こういう人は「社会を渡り歩いて、社会を横断的によくしてゆく」という使命があるんじゃないかと予想しています。
「社会を渡り歩く種」がいる方が、社会はよくなる
この理由は単純で、「社会を渡り歩く種」がいる方が、社会は他の社会での改善情報を得られて、社会をよくできるからですね。
人間はそれぞれ社会を作って生きますが、効率化とか工夫って、社会ごとに作られます。
その場合、もし人間が「ずっと同じ社会に居続ける」タイプばかりの場合、1つの社会で作られた工夫や改善が、その社会のみで閉ざされてしまいます。
だから、どこかで生まれた優れた発明とか発見も、1つの社会でしか使われません。
それどころか、その社会が滅んでしまうと、せっかくの発見も無に帰ってしまいます。
でも、「1つの社会だけに属し続けるのではなく、社会を横断的に移動する種」がいることで、他の社会の情報を別社会に届けられます。
そのために、生命は「自分を変えて、社会を変えて生きる種」を作っているんじゃないかと予想しています。
性質には、何かしらの使命がある
そんな風に私の中では、性質には、何かしらの使命や目的があるように思います。
というのも、生命が「性質を作る」というのは、「わざわざ手間をかけてでも、その性質を分けている」からですね。
元々生命は単細胞生物で、それだけで生きられるなら単細胞のままでよかったわけです。
でも、いろんな場所で適応して生きられるように、そして生き残れるように、わざわざ性質を追加してきたと。
そして、特にDNAに刻める情報なんて限られているので、「本当に後世に残したい、大切な情報」しか残せません。
ならば、「自分を変えたい」というタイプの人がごく一定数生まれるのも、「意味があるから、わざわざそういう性質を作っている」と考えるのが自然です。
「その性質は、生命の発展と繁栄のために、意味がある」ということですね。
性質とは「その存在意義を読み解くもの」
なら、性質というのは、「その存在意義を読み解くもの」のように思います。
そして、その使命に合った使い方をすると、心地よく生きられます。
例えば「自由に生きたい」という性質を持つ場合、自由に生きれば心地よくなれますよね。
でも、社会の中で自分勝手に動くと、周囲から「決められたルールを守れ!」と攻撃されてしまいます。
なら、「社会から距離を取って、批難されない程度に人が少ない場所で、自由に生きればいい」と分かります。
すると、未開の土地で自由に工夫をすることで、新境地を開拓して、人々に新たな生きる場を提供できます。
そしてほとんどの場合で、「自由が好き」というタイプの人は、同時にそういう「工夫をする」という性質も持っているわけです。
使命を果たすほど、心地よく生きられる
だから私たちは、「使命を果たすほど、性質として心地よく生きられる」と言えるように思います。
「我慢するほど、生命として素晴らしい」ではなく、「性質的に心地よく生きるほど、生命として素晴らしい」という観点です。
なのに、多くの人が「我慢するほどいい」と思ってます。
確かに、1つの社会の中で生き続ける場合、そういう我慢は大切になるでしょう。
我慢をすることで、ストレスの強い社会でも居続けられるんですから。
そしてそういう「1つの社会で生きる」タイプの人は、そういう我慢が比較的苦になりません。
それに、愚痴を言うことでストレス発散をして、大してため込んでないんですよ。
「自分を殺すほどの苦しみ」は、使い方が間違っている
でも、社会を渡り歩いたり、社会から出て新境地開拓をするような種の場合、我慢をし始めると自分を殺すほどの苦しみになります。
それはやはり、「性質の使い方を間違っているから」と言えるように思います。
そもそも社会から出るタイプの人は、愚痴も言わないし、ストレス発散もできないので、ため込みやすいんですよね。
そして、性質を違うように使ってしまったり、自分の性質を変えようとしてしまうわけです。
「どうすればこの性質をなくして、他の人と同じようにできるだろうか」、「どうすれば我慢できるだろうか」、「どうすればこの性質を、『今の社会で』使えるだろうか」みたいに。
で、無理矢理押さえつけたり、変えようとしても、どこかにそのゆがみは出てきます。
自己肯定感が落ちたり、自己肯定感を無理矢理上げると躁鬱になったり、躁鬱を無理矢理治すとアルコールや薬物の依存性になったり、みたいな。
だから最終的に疲れ切ってしまい、「死にたい」みたいな、生命の方向性とは違う欲求を得るんじゃないかと思います。
本来なら「生き生きと生きたい」が正常なのに、性質とその使い方がかみ合わなくなってしまい、間違った方向に強い圧力やストレスがかかって、自分が壊れてしまうと。
まとめ
なので人の性質には、それぞれ何らかの用途、いわゆる「使命」があるように思います。
まぁ「使命」とまでは言わずとも、「効果的な使い方」があるように思います。
そしてその効果的な使い方ができると、生命の発展につながるし、自分も心地よく生きられると。
なので「どう我慢をするか」、「どう周囲と同じにするか」ではなく、「どういう意味があって、どういう使い方をすればいいのか」を考えるのもいいように思います。
そしてその使い方に沿って、自分の生き方を作るわけですね。
で、例えば「自分を変えて、いろんな環境で生きたい」というタイプの人は、「社会を渡り歩いてよくしてゆく」使命があるように思います。
その場合、持ち物は少なくして、食料とか安全みたいな根底部分をより大切にして、身軽に生きる方が合うようにも思います。
すると生き生きとできて、なおかつ社会をよくして、意味ある生き方ができるんじゃないかな、と思ったりもします。
ということで今日は、「自分を変えて、いろんな環境で生きたい」タイプの人は、「社会を渡り歩いてよくしてゆく」使命があるのかも、という仮説のお話でした。
今日はここまで~。