今日は、生き方のお話です。
「何もかもが足りない場」をイメージしてみると、自分が貢献できる場が実感できるかも、というお話です。
貢献できることが見えない場合、どうすればいいのか
ビジネスを立ち上げたい人とか、独立したい人の場合、「人が喜んでくれることをしたい」とか、「何か貢献できることをしたい」と感じる人もいるかと思います。
実際に、誰かが喜んでくれるところをイメージしただけで、嬉しくなるものです。
でも、なかなか喜んでくれる人とか、貢献できることが見えないものですよね。
それどころか、そういう「喜んでくれる人」の実感がないと、少しずつ生きる気力を失いやすいようにも思います。
「自分は生きている意味がないんじゃないか」、「この世界には、自分がいて喜んでくれる人はいないんじゃないか」
そういう風に感じて、力を出せなくなることもあるかもしれません。
そういう場合、「何もかもが足りない場」をイメージしてみるのもいいかもしれません。
すると、「この世界には、自分が貢献できる場がある」と実感できて、可能性が見えるかもしれません。
開拓時のアメリカをイメージしてみる
例えば、こういう環境をイメージしてみましょう。
そこは開拓時のアメリカのように、辺境の地です。
ヨーロッパ諸国では大不況がやってきていて、多くの人がヨーロッパでは生きられない状況になっています。
だから、多くの人が発展した「都会」とも言えるヨーロッパから出ざるを得ず、「辺境の地」とも言えるアメリカにやってきています。
一方で当時のアメリカは、「何もかもが足りない」という状況です。
というのもまだ未開の地なので、社会のルールもないし、大きな工場も、会社も、住宅街ですらないほどです。
だけど、どんどんヨーロッパから人が押し寄せてきているので、人口は着実に増えている状況です。
なぜかやたらと活気がある
そういう場所では、不思議なことに、やたらと活気があるんですよ。
というのも、何もかもが足りないからこそ、「作れば作るほど、売れる」という状況だからですね。
また、「何かを作る材料」だけは山ほどあります。
土地だってアホほど余っているし、木々もあるし、山も、川もあります。
鉄もあるし、少しずつそういう加工場もできている状態です。
そういう木々や鉄を使うことで、何でも作ることができます。
すると、「何を作っても喜ばれるし、それを求める人がいる」と分かります。
好きなものを作ればいい
ならば、「自分が好きなもの、得意なもの、興味あるものを作るのが、一番いい」と分かります。
だって、「何もかもが足りない」のであれば、「自分が最も作りたいもの」を作るのが一番効率的だし、自分も楽しめて周囲も喜んでもらえるんですから。
鉄の加工が好きなら、加工工場を作って、鉄製品を売って。
家具作りが好きなら、家具を作って売って。
人々の調整が好きなら、弁護士や政治家になって人々をまとめて。
人の悩みや不安を解決したいなら、牧師や占い師になって人々を導くと。
そういう風に、「何もかもが足りない」からこそ、貢献しやすいし、喜んでもらいやすいわけですね。
同時に、何もかもが足りないからこそ、「欲しい!」、「作ろう!」、「売ろう!」と活気が出るし、新たに作れば作るほど成果も出ます。
そうやって、泥臭い中でも、エネルギーを出して生きる生き方です。
都会は何でもあるからこそ、満足しにくい
なのに多くの人が、「何でもある、便利な都会の方がいい」と思ってしまうんですよ。
確かに都会は便利だし、何でも既製品があるし、お金さえあれば何でも買えるでしょう。
でもそういう都会には、「何でもあるからこそ、少々のことでは満足できない」という問題があります。
それに、都会で競争して生きるような人々は、少々のことは「あって当然」ですからね。
なので、少々何かをしてもらったとしても、感謝することもありません。
すると、「作るのが好き」とか、「小さなことでも、誰かに喜んでもらいたい」、「未来に希望を持って生きたい」という人ほど、都会では苦しくなりやすいと分かります。
それは、少々のものを作っても受け入れられないし、喜んでもらえないし、だからこそ未来に希望も持ちにくいからで。
そしてそういう人ほど、むしろ「何もかもが足りない場」の方が元気が出るし、希望も持てて、貢献を実感しつつ生きられるように思います。
「何もかもが足りない場」に向かう
なら、後は簡単です。
そういう「何もかもが足りない場」に向かえばいいんですから。
そこは都会的な場所ではなく、むしろ「かなり不便で、都会で生きられない人が逃げてゆくような、敗者がたどり着く先」だと言えるでしょう。
だけど、そこには材料だけはたくさんあるし、人々がどんどん集まっている状況です。
だからカオスだし、ルールもないし、人種のるつぼだけれども、不思議な活気があります。
それは貧しいからこそ、作れば作るほど売れるからですね。
そういう場は、ある意味自由です。
仕事だって「やらされている」という感覚はなくなって、「自分が仕事をしている」という感覚になれます。
「言われたからやる」ではなくて、「自分がやりたいから、やる」という感覚です。
陰の裏には、陽がある
世の中が変化する時というのは、そういう「陰と陽」の現象が起きます。
「最先端のヨーロッパで不況が荒れ狂う」という陰があれば、「未開のアメリカでは不思議な活気が生まれる」という陽が生まれます。
「都会で生きられなくなる人が続出する」という苦しみがあれば、「田舎で活力が出てくる」という陽が生まれます。
「経済がクラッシュした」とか「大不況が来た」、「倒産件数が過去最多」とかいうのは、陰と陽で言う「陰ばかりに目を向けた状態」です。
以前も触れましたが、好景気と不景気は同時に生まれるものです。
それは裏を返すと、「社会が不景気になって下落するほど、別の場所で不思議な上昇が起きている」ということです。
そういう世の中の別側面を知り、そういう方向に目を向けることですね。
落ちるところがあれば、上がるところもできている
基本的にマスコミは、負の側面しか伝えません。
だから多くの人が「世の中がマイナスになる」と思い込んでしまうんですが。
でも、陰と陽で考えると、「落ちるところがあれば、上がるところもできている」ということです。
それは、都会の人の感覚で言うと、「ネガティブ」だと言える場で起きているでしょう。
実際に発展したヨーロッパから見ると、「未開拓で、難民のように人々が押し寄せる、何もないアメリカ」なんてネガティブまっしぐらでしょ(笑
そこは「敗者がたどり着く場所」だし、「誰も行きたくない場所」、「落ちぶれた人がたどり着く末路」のように、常識では忌避する場になるかもしれません。
そういうネガティブ側に目を向けてみることですね。
実はそういうところに、次の上昇が生まれていて、波のように変化してゆくことになります。
まとめ
なのでそういう風に、「何もかもが足りない場」にも可能性があるように思います。
「便利な場」を求めるのではなく、あえて「不便な場」だとか、「ネガティブだと言われている場」に目を向けてみるのもいいでしょう。
私の中では、「人々が逃げるように集まってきていて、貧しいけれども、作る材料だけは豊富にある」という場所がいいように思います。
「人が集まりつつある」、「貧しい」、「材料は豊富」という要素がそろっているほど、喜んでもらいやすいかなと。
確かにそこは、キラキラ輝く場ではないし、「あこがれの場」ではないでしょう。
有名な出版社もないし、あこがれのクリエイターがいるわけでもなく、「ゴージャスに着飾った人たちが、見栄を競っている」、「インスタ映えするネタが豊富」なんてこともありません。
でも、そこは「あこがれのクリエイター」はいないかもしれませんが、「自分が、人々からあこがれられるクリエイターになる」ことができます。
それは当然で、人々に貢献するほど、人々からあこがれられるんですから。
「あこがれを追う」のと、「自分があこがれになる」、その違いを知ることかな、と思います。
すると、「この世には、どんな不景気な状況でも、自分でも貢献できる場がある」と分かって、可能性が見えるかもしれません。
ということで今日は、「何もかもが足りない場」をイメージしてみると、自分が貢献できる場が実感できるかも、というお話でした。
今日はここまで~。