今日は、だいぶスピリチュアルなお話です(笑

「神様目線で見てみると、動きやすくなることもある」というお話です。

 

カトリック系高校の卒業送辞がよかった

2~3日前のこの記事で、ちょびっとだけ聖書にある「1タラントンのたとえ話」を書いたんですよ。

で、その時に少し調べたら、とてもいい記事があったのでご紹介。

少なくとも1タラントンはある(弘前学院聖愛高等学校)

 

高校卒業式での送辞なんですが、これが分かりやすくて素晴らしいように思います。

メッセージ性が強くて、まさに卒業式のように人を送り出して励ましたい時とか、岐路にさしかかっている人には、こういうのが合いそうに思います。

 

「1タラントンのたとえ話」

内容はというと、聖書にある「1タラントンのたとえ話」のお話です。

とあるところに、主人と3人の使用人(僕:しもべ)がいて、出張か旅行かは知りませんが、主人がどこかに行くことになったと。

で、使用人たちに、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンという金額のお金を預けて、それで旅行に行ったわけです。

 

そして主人が帰ってきたとき、5タラントン、2タラントンを得た使用人は、それで商売をして、お金を倍ぐらいに増やしています。

だから、主人は喜んで、「よくやった」とその2人を褒めます。

 

一方で、1タラントンを預けられた使用人は、それをどう使ったらいいのか分からなかったのか、大金に怖くなって、土の中に埋めて隠しておいたと。

すると、主人は「せっかく与えた才能や可能性を使わないとは、なんて分かっていない奴なんだ」的なノリで、その1タラントンをもその使用人から奪ったと。

そしてその分を、他の使用人に与えた、というお話です。

 

なので、「持っている人はどんどん得て豊かになるけど、持っていないひとは持っているものすら取り上げられてしまう」みたいなことになると。

 

劣等感を持つ人がしやすい誤解

イエスはよくたとえ話を使って分かりやすく説明しているので、これもイエスが使った、ひとつのたとえ話です。

おそらく、この「主人」が神様で、「使用人」が人間、という暗喩だろうと思います。

で、「神様から与えられた才能は、ちゃんと使うといいですよ。その才能をうまく使えば豊かになれるし、その才能を使うことを恐れていると、持っているものすら取り上げられるよ」という教訓的なお話だろうと思います。

 

ただし、これは劣等感を持っている人からすると、「どうして神様は、そんなひどいことをするんだ!」と感じると思うんですよ。

だって、その「奪われた人」は不幸のように見えますよね。

最初は1タラントンしか与えられないし、「一番豊かさが少ない人」だし、「恐れて何もできない」だけで見捨てられてしまうんですから。

そもそも、「神様は万人を愛して、優しくする存在」なはずです。

 

なら、一見すると、「神様は、そういうダメな人ほど救うべきだ」みたいに思いますよね。

「本当なら、そのダメな人を救うものじゃない。なのにそんな貧しい人とか、『周囲のようにできない人』から取り上げるなんて、ひどい!」みたいに。

 

これがそもそもの、劣等感を持つ人の誤解だろうと思います。

 

それは貧しいことではない

実のところは、「それは貧しいことではないし、ダメなことでもない」ということですね。

1タラントンしか与えられなくて、「周囲と比べて、一番(金銭的な)豊かさを与えられなかった人」は、本当に不幸なことなのか、ということです。

言うなれば、私たちはそれを「不幸なことだ」と思っているけど、神様から見ると「別に不幸でもなんでもないやん」と感じるように思います。

だから、神様はそういう人を助けはしないし、「まぁそう行動すれば、そういう結末になるよな」と、豊かさを作らない人を放置しておくわけです。

 

じゃあなぜ、神様はそういう「1タラントンしか得なかった人」を見捨てているのか。

これは、私たちが神様の目線になると、分かりやすいように思います。

 

私たちが神様になるとしたら

ここで、私たちが神様になって、何かオンラインゲームとか、物語でも作るとしましょう。

それは、いろんなキャラが混じって育ってゆく、マルチプレイのオンラインゲームみたいなものです。

 

ちなみに、新約聖書ではなくて旧約聖書で「神は、神に似せて人間を作った」とあるんですが、これは結構あると思うんですよ。

私たちは「なんで神様に似せたと言えるねん」とか思いますが、これは発想を逆転させると、「神様に似せずに作る合理的な理由がない」ですからね。

 

つまり、私たちがゲームや物語を作る場合でも、私たちに考え方や姿を似せて作るものです。

主人公の姿が動物だったとしても、考え方とか生き方とか、どこかの点で私たちに合わせるものです。

なら、まぁ「自分と同じ姿や考え方を、ゲームキャラとか、キャラデザインに反映させるのが妥当だよな」と分かります。

 

だから、神様は「自分と似せて、人間を作った」と考えることができると。

ならその反対の、「私たちがゲームを作る場合」からも、神様の立場をイメージできると分かります。

 

不公平がないようにキャラを作る

そういうゲームを作る場合、だいたい能力配分のパラメーターは、トータルで合計値が一緒にしたいものです。

でないと、不公平になって、ゲームが面白くなくなりますからね。

 

腕力が高いキャラは、魔力が少なかったり。

初期に多くのパラメーターを割り振られているキャラ(最初から高い能力を持っている人)は、余分なパラメーターを割り振れずに柔軟性がなかったり。

最初は成長が遅いキャラは、レベルが上がるほど急激に伸びて成長しやすくなったり。

そういう風に、だいたい何かしらのメリットとデメリットがあって、バランスが取れているものなんですよ。

 

私たちの性質は、いいも悪いもない

そもそも遺伝子(DNA)というのは、「何を重視するか、しないか」という価値観のスイッチでしかありません

それは、「優れているかどうか」ではなく、「こういうことに向いているようにしよう」という、特化型にするためのスイッチでしかないんですよね。

すなわち、私たちの個性は、トレードオフ(何かを得るために、何かを犠牲にする)の組み合わせでしかありません。

 

そして、遺伝子の数自体も、多くても少なくても、それもトレードオフです。

遺伝子の数が少ない単細胞生物ほど、痛みを感じずに、いろんな場所で生きられて、繁殖力が強いでしょう。

でも、「進化した生命」には弱いものです。

一方で人間のように遺伝子が多く、進化した多細胞生物になるほど、いろんな痛みを感じやすいでしょう。

ですが、そういう進化した生命ほど、限定された「有利な場所」を選ぶことで、単細胞生物よりも能力的に強くなれて、生き残りやすくなります。

 

だから、私たちの「遺伝子によって与えられた素質」は、結局のところ「いいも悪いもない、トレードオフでしかない」ということです。

 

キャラの「神様への不平」を聞いてみよう

すると、私たちが神様目線になって、ゲームのキャラを見てみましょう。

ゲームのキャラには、それぞれパラメーターをいろいろ与えて、自律的に動くようにしています。

 

ならそこで、ゲームのキャラが「おお、神よ! なぜあの人はあんなに優れた戦士の才能を持っているのに、私はこんなにひどい能力なのですか!」と嘆きます。

私たち神様側からすると、「いやいや、お前にもトータルで同じパラメーターがあるんやで」とか言いたくなりますよね。

もしくは、「お前は魔力が高い種族だよ。なのになんで、わざわざ戦士になろうとするねん」とツッコミを入れたくなったり。

それとか、「お前はレベルが上がったら、急成長する種族だよ。レベルを上げてゆけば、後から分かるよ」と言いたくなったり。

 

それなのに、「おお神よ! 私は神を信じているのに、なぜこのような不幸をお与えになるんですか!」とキャラは叫ぶわけです。

「いやいや、俺を信じているなら、不平を言わずに、とりあえず適性に合うようにレベル上げしろよ」と言いたくなったり(笑

 

他にも、「おお神よ! 私は神を信じたのに、モンスターに痛めつけられました。こんな不幸を与えるなんて、私はもう神を信じない! 神は死んだ!」とか言っていて。

すると、「あぁ、まぁいいや、好きにすれば」とか言いたくなりますよね(笑

 

神として助けても、受け取らないキャラもいる

で、私たちが親切心で、助けることもあるんですよ。

神様の力で、わざわざその「魔力が強いのに、戦士になろうとしているキャラ」に、魔力を使える状況を設定して。

で、「ほら、魔力もあるよね。魔力を使ったら、今はレベルが低いけど、君は最初にしてはすごい能力だと分かるよね」と伝えます。

 

なのに、そのキャラは「今まで頑張って戦士をやってきたんだ! 最初からできるわけない!」とか、「私は戦士として認められなきゃいけないのです!」とか言うわけです。

なら、やっぱり私たちは、「分かってないなぁ。まぁヒントは与えたから、後は好きにすれば」と見放すと。

こういうことだろうと思います。

キャラは、「神の意図を分かっていない」から嘆くわけです。

 

この「神の意図」を、「生きるコツ」とか、「うまくいくコツ」だと言い換えると、分かりやすいかもしれません。

 

神様目線で見ると、いろんな「生き方の許可」が出せる

それだけでなく、神様目線で見ると、いろんな「生き方の許可」が出せるかと思います。

 

例えば、親から虐待されたり、脅されたりして、「自分はこう生きなきゃいけない」、「どうして神は、私にこんな境遇を与えたんだ」と思っていたとしても。

でも、神様目線で見ると、こう答えたくなるかもしれません。

「初期では、合わない環境に生まれることもあるよね。でも、それが君の物語だ。主人公は裏切られたり、絶望や挫折をしたり、婚約破棄されたり、パーティから追放されて、そこから君の物語が始まるんだ」

「成長したら、クエストは自分で選んでいいよ。生まれた環境とか、親が持ってくる無理なクエストに執着する必要はないよ」

「その『初期の村』から出てもいいんだよ。世界は広いからね。どこかの村で、誰かがあなたを待っている。自分で自分の冒険を始めなさい」みたいに。

 

強い敵に出会ったり、道が途切れていて、進みたい道を進めない状況になった時、「神よ、どうしてこんな苦難を与えるのですか」と言いたくなったとしても。

おそらく神様目線で見ると、こう答えるかもしれません。

「その敵と戦わなくてもいいよ。回り道でもいいよ」

「特性に合った敵が出るものだよ。自分の特性に合わせて、戦い方を考えなさい」

「もし特性に合わない敵なら、それは君がやるクエストじゃないよ。そのクエストの攻略は、他の適性を持つキャラに任せればいいよ。君は、自分が攻略しやすいクエストを進みなさい」みたいに。

 

世の中には、クエストは山ほどある

そういう風に、神様目線で見ると、「無理なクエストはしなくていい。自分の特性を見極めて、それに合うクエストをこなせばいい」と分かります。

実際、「自分に合わないクエストで、特性も何もない分野のレベルを上げようとする」とか、アホらしいでしょ(笑

 

世の中には、クエストは山のようにあります。

「親が持ってきた、無理難題なクエスト」とか、「社会が評価する、みんながあこがれるクエスト」にこだわる必要なんてありません。

世界の果ての、小さな村にいる、ひとりの少女のためにダンジョンに挑むのも、それもひとつのクエストです。

神様は、「自分で選んでいいよ」と言っているかなと思います。

 

まとめ

なら、「1タラントンしか与えられなかった人」は「神が助けるべき対象」だったのかというと、そうとは言えないと分かります。

ひょっとすると、「初期のお金が少ないことで、より初期から効率的な戦い方を工夫できて、戦略を考えられる」というメリットがあるかもしれません。

すると、そういう人は、後にお金を得られるようになると、ぐっと飛躍するかもしれません。

 

それなのに、多くの人が「神のパラメーター配分」や「自由度」を信頼せずに、不平を言っているように思います。

「おお神よ! なぜ私は、周囲と同じように、私にはこのような才能をお与えにならなかったのですか!」

「おお神よ! なぜ私にこのような苦しい試練を課すのですか!」

 

「パラメーターに善し悪しはないよ。傾向だけだよ。パラメーターの数は、DNAの数ほどあるよ。戦う場所とか、特性を考えなさい。自分なりの戦い方でいいよ」

「クエストは自分で選びなさい。自分で選んでいいよ。私がお前に試練を与えるのではなくて、試練がそこにあって、君がクエストを選んでいるんだよ」

神様からの返答がなかった場合、そう考えてみるのもいいかなと思います。

 

すると、「1タラントンを与えられて、怖くなって埋めておく」ことが、何も意味をなさないことだと分かるでしょう。

それどころか、生きるためには資源が必要なので、どんどん食い尽くして貧しくなっていくでしょう。

だから、「持っている人はどんどん得て豊かになるけど、持っていないひとは持っているものすら取り上げられてしまう」みたいなことになるかな、と思います。

 

これが分かると、自分の可能性を感じられて、より動きやすくなるかもしれません。

 

ということで今日は、「神様目線で見てみると、動きやすくなることもある」というお話でした。

今日はここまで~。

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