今日も生き方のお話です。

短絡ではなく本質を理解できるから、現実を変えやすくなる、というお話です。

 

現状から出たい場合、どうすればいいのか

このブログでもよく触れていますが、苦しい状況にいるほど「現状を変えたい。今の状況から抜け出したい」って感じるかと思います。

 

だけど、「何をどうすればいいのか、分からない」ということがあって。

いわゆる、「混乱している」という状態ですね。

思考が混乱して、糸が絡んだようにぐちゃぐちゃになっていて、「あれも大切だけど、これも大切。これを手放すと、こう苦しくなる。もう何が何だか分からない!」と泣き出したくなるような状況です。

 

こういう混乱した状況だと、あまりの複雑さに、原因を短絡させたくなったりするんですよ。

というのも、短絡させるほど楽になれるからですね。

例えばよくあるのが、「お金さえあれば」とか、「自分は生きるのに向いていないのが原因だ」、「あいつさえいなければ」、「自分が死にさえすれば」みたいなものです。

 

短絡をさせる犠牲

なら、少なくとも混乱を取り除けます。

たとえそれがトンデモ理論でも、「ああ、これが原因なんだ」と自分をごまかせて、混乱を解消できるからですね。

実際に「お金さえあれば幸せになれる」とか、「自分は生きるのに向いていない」なんて、冷静に考えるとトンデモ理論でしょ。

だけどそんなトンデモ理論でも、「混乱を解消できる」という目先のメリットがあるから、すがりたくなるわけです。

 

ただ、その代償として、「現状から出られない」、「永遠にそのまま」という犠牲があります

だから限界を迎えると、その「ごまかしという名のポジティブ」が反転して、「自己否定というネガティブ」に陥って、苦しみを深めるだけになると。

 

だいたい冷静に考えたら、絡まった糸は何も変わっていませんからね。

そんなごまかしは「時間や労力を浪費するだけでしかなかった。自分は何も現実に向き合わずに、現実を変えていなかった」と分かるんですから。

そしてそんな代償行動は、後に強烈な自己否定をもたらします。

 

そういう場合、短絡ではなく本質を求めようとするのもいいかと思います。

すると「楽に要所に手を加えて、現実を変えやすくなる発想がある」と分かって、長期的に楽になれるかもしれません。

 

短絡と本質の違い

苦しい現状に居続けてしまう場合、多くの人が「短絡」と「本質」をはき違えているように思います。

「短絡」は代償欲求で、現実から目を背けるごまかしでしかありません。

一方で「本質」は、現実をシンプルに理解することです。

 

実際に本質に気づけると、すっごい楽になるんですよ。

だって本質って、「なんでこんな単純なことに気づかなかったんだ!」と叫びたくなるものだからですね。

 

例えば絡まった糸を前に、ずーっともがいて、何度もキレて、「ダメだー!」と泣き叫んでいたとしましょうか。

でも、ある時ふと、一本の針に目が向いたりするんですよ。

「あれ? この針を使えば、指では抜き出せないような、細かい糸を引き出せるかも」と分かったり。

 

すると、するするっと糸がほどけて、「たったこれだけのことかよ!」と叫びたくなるわけです(笑

本質なんてそんなもので、それに気づけば思わず笑ってしまって、「何でこんな簡単なことに、今まで気づかなかったんだろう」と不思議に思うようなものです。

 

そして裁縫用の針なんて身近にあるし、針そのものでなくとも代用できるものは周辺に山ほどあります。

なのに、ずーっとそれに気づかないでいると。

 

本質とは、難しさをなくすもの

本質とは、そういう「いろんなことから、難しさをなくすもの」です。

そして、そういう本質は、複雑に難しく考えるものではありません。

だって、「簡単だから本質」なんですから(笑

 

だから「本質を見抜いていくほど、楽に生きられるようになる」と言えます。

要所ばかりを攻められるので、簡単にいろんなことが実現できるようになるし、楽になって当然です。

そもそも、「混乱」と「本質(シンプルな要所)」は交わり合わないものです。

 

そして「短絡」は非現実な理論ですが、「本質」はより現実を元に考えられています

つまり本質は短絡よりも多少は手間がかかるので、多くの人が本質よりも短絡を選んでしまうようにも思います。

 

本質は、現実が楽になってゆく

なので短絡よりも、少しだけしんどくても「本質」に目を向けましょうよ、ということです。

短絡は「目先はごまかせるけど、現実は苦しいまま」ですが、本質は「目先は少ししんどいけど、現実は少しずつ楽になってゆく」と言えます。

 

そして本質を見抜くことって、言い換えると「目からウロコ体験ができること」です。

だから本質を見抜くほど、希望が持てるし、楽しくなってゆきます。

裏を返すと、「ポジティブに考えよう」的なごまかしほど、目からウロコ体験がないので、何も変わらないと。

 

シンプルに自由にしてゆくと、本質が見える

そしていろんなことをシンプルに、自由にしてゆくと、本質が見えてきます

例えば、「あれもあるし、これもあるし」と複雑にするのではなく、「そもそも何を満たしたかったのか」と、シンプルにしてゆくことです。

「これも考えなきゃ」と制限を加えるのではなく、「これは自分の人生では、些末なことだ」、「こんなことでは、私は縛れない」と、思考を自由にしてゆきます。

 

だいたい方向性を検討している段階では、「現状で役立つ細かいテクニック」なんてどうでもいいものです。

だって、そもそもその「現状」から出る予定なんですから。

 

なら、細かいしがらみを手放せて、精神的な余裕を増やせます。

するとその余裕があることで、いろんな「周囲にある使えそうなもの」に目が向きます。

そうして初めて、「あ、針が使えるかも」、「針に代わるものがあるかも」、「一つほどけたら、どんどんほどけるものだな」みたいに気づけるわけですね。

裏を返すと、複雑で余裕がないから、何も「周囲にある使えるもの」が見えなくなっていると。

 

「小さな利益」を手放してみる

もっと具体的な方法論を言うならば、そのために「小さな利益」を手放してみるのもいいかと思います。

「プチ利益、プチ効率化、プチ得」みたいな、どうでもいい小さな利益を手放すわけです。

 

すると、「根本的に、それって必要なの?」と、大きな枠組みで疑えます。

「そもそも大きな目線で見れば、関係ないやん」みたいな。

そういう「シンプルにしてゆく、ばっさり大きくとらえる」というアプローチが、本質や要所を見抜きやすくするように思います。

 

まとめ

なので「何をどうすればいいのか、分からない」という場合、短絡ではなく本質を狙うのもいいかと思います。

短絡は現実逃避でしかありませんが、本質は現実を楽にしてゆきます。

 

そして多くの場合で、シンプルにしてゆくと、「自分がしたいこと(自分の価値観)」と「したくないのに、こうしなきゃいけないこと(他者の価値観)」の板挟みだと分かります。

結局のところ、「2つの対立関係があるだけだった」と、大きな枠組みが分かります。

 

なら、なぜその「したくないのに、こうしなきゃいけないこと」を続ける必要があるのか、ということですよね。

そして「これが抑圧だ」と分かれば、「価値観に対してネガティブになる」という戦略が取れるし、別の世界にも目を向けられるでしょう。

 

すると「今まで気づかなかった、これを使えばいい」と分かって、今までの思考の枠組みを手放せて、現状から出られるかもしれません。

 

ということで今日は、短絡ではなく本質を理解できるから、現実を変えやすくなる、というお話でした。

今日はここまで~。

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