今日も、生き方のお話です。
「愚痴を聞くことに、何か価値を作れないか」と問われて、私ならどう答えるか、というお話です。
「愚痴を聞く価値」への質問
先日、こういう質問をいただいたので、ご紹介。
最近、高齢の方々の愚痴や弱音を聴く機会が増えました(中略)
聴いた愚痴をストレスとかマイナスで終わらせるのではなく、私が何か発想を転換することで、
愚痴を単なる愚痴で済ませない方法を模索できたら、どなたかの役に立つのではないか?と思いました(中略)
あやえもんさんなら、これをどう転換なされるのか、教えていただきたいと思いましたので、メールしてみました
簡単にまとめると、「他者の愚痴を聞くことも、何か価値にできないか」ということですね。
これは私の予想ですが、質問者さんは人と接する仕事をしていることで、他者の愚痴を聞く機会が多いのかなと。
そして、愚痴を聞くのはあまり面白くないけれども、「もしそれを価値に転換できれば最高だな」と思ったのかなと、想像したりもします。
「他者の愚痴」を価値にできないか
実際に、愚痴を聞くのって、結構しんどいですよね。
私とか、もう過去にどうでもいい愚痴を聞かされた時とか、内心ひーひー言ってましたから(笑
じゃあ私の場合、どうやってそういう問題に向き合うのか。
で、今回の結論から言っておきましょう。
私からの答えとしては、表面的な答えと、少し踏み込んだ答えの2つがあります。
表面的な答えとしては「原理を考えれば、価値を作りやすくなる」、踏み込んだ答えは「価値を見つけ出す前に、その相手を助けたいかを考えるのもいい」ということです。
すると、うまく判断できるかもしれません。
原理を考えると、価値にしやすくなる
まずは、表面的な答えです。
「愚痴を価値に転換できないか」と問われると、原理を考えればうまく価値にできるかもしれません。
愚痴とは、「誰か、自分に共感して欲しい」という欲求ですからね。
つまり、愚痴を言う人というのは、「味方が欲しい」ということです。
さみしかったり、孤独だったり、受け入れられている実感がなくて、その社会で劣勢になっているから、社会的な支えや味方が欲しくて愚痴を言うんだと。
愚痴を価値にする、一つの方法
この根底が分かれば、「それを満たせれば価値を作れる」と分かります。
例えば「愚痴を言う人には、同じような種類の愚痴を言う人を引き合わせる」というのも効果的でしょう。
共感してくれる人を欲しているなら、同じ境遇の人と語り合えると、「私もそう!」と受容感を増やせます。
なら、双方が喜べるし、愚痴を言い合うことで仲間意識を持てて、互いの孤独を癒やせると分かります。
実際に、例えば被虐待児の治療現場では、グループを作って「過去に受けた苦しみを、一人ずつ語る」という療法があるんですよ。
一人ずつが過去の苦しみを語ることで、周囲の人が「私と同じだ。同じ苦しみを持つ人が、ここにいる」と分かります。
すると「自分は孤独ではなかった」と分かって、涙を流して、癒やしになると。
これは実際にかなりの効果があって、治療の初期ではとても役立つものだったりします。
つまり、共感できる人同士であれば、愚痴は癒やしになるわけですね。
なので、表面的な答えとしては、「そういう原理を考えれば、価値を作りやすくなる」となります。
なぜ「愚痴を聞くのが苦しい」となるのか
で、ここではもう少し踏み込んで考えてみましょう。
そもそも、なぜ「愚痴を聞くのが苦しい」となるんでしょうか。
実のところ、私たちが「愚痴を聞くのが苦しい」と感じるのは、相手に共感できないからなんですよね。
先に「愚痴は共感できると、癒やしになる」と触れましたが、相手が「共感して欲しい」という状態なのに、私たちは共感できないから、私たちが苦しくなると。
それなのに、それでも私たちが無理に聞こうとしたり、共感しようとするから、自分の価値観を殺しているように感じられて、しんどくなるわけです。
ただし質問者さんの状況としては、仕事か何かのしがらみがあって、「愚痴を聞くこと」から避けられない状況なんだろうと思います。
だから、「何か価値にできないのか」と模索しているんじゃないかな、と予想したりもします。
価値を見つけ出す前に、その相手を助けたいかを考える
そういう場合、「価値を見つけ出す前に、その相手を助けたいかを考える」というのがいいかもしれません。
すると、「無理に価値を作ろうとしなくてもいい。これは仕事だと割り切って、切り捨てる」ことができるかもしれません。
昨日の日記でも触れましたが、私は「多くの人が見捨てているものに、価値を見いだす」というのが好きなんですよ。
ただし、「すべての見捨てられているものを、助けようとする」というわけではありません。
つまり、私は「見捨てられていて、価値があると感じられるもの」だけを助けます。
「見捨てられていて、価値がないと感じるもの」は、助けません。
「助けられるものだけを助ける」という発想
まぁ確かに「見捨てられているものを、自分も見捨てること」をするのは心が痛むんですが、助けられないものは助けられませんからね。
なので、手を合わせて「私には君を助けられません。ごめんなさい。誰か助けてくれる人と巡り会えるといいですね」と供養(くよう)して、離れます。
例えば近所の店で、傷んだみかんが、100円で大量にたたき売りされていたとしましょうか。
私はそれに価値を見いだせるから、「助けよう」とするわけです。
「ジャムにするのもいいな。ケーキに使うのもいいし、ドライフルーツも試してみるのもいいかもしれない。なら、安いから失敗しても痛くはない」とできます。
助けられないものは、助けない
一方で、例えば同じように近所の店で、枯れかけたセリ(食べられる野草、春の七草の一つ)がたたき売りされていたとしましょうか。
でも、私にはセリをうまく扱えません。
それに、セリなんてその辺の水路に山ほど生えているので、買う必要すらないわけです。
その場合、私はそういう「見捨てられているセリ」を助けようとはしない、ということです。
「買わなくて当然だ」と判断するし、もし良心が痛む場合は、「ごめんね、私には助けられないよ」と手を合わせて、供養して、その後は忘れます。
「私たちの力で助けられるもの」なんて、わずかしかない
そもそも私たちは、「私たちの力で助けられるもの」なんて、わずかしかないものです。
私たちは世界平和を実現できるような偉大な力もないし、助けられる相手なんて、ごく一握りの人やものしかない程度です。
だけど、「みかんとかフルーツなら助けられる」と分かれば、「無理にセリを助ける必要はない」と分かります。
だって、よりお金や余裕を確保していれば、より多くのみかんやフルーツを助けられるんですから。
そういう「自分に助けられる範囲」をうまく知って、ストレスにならずに、心地よく生きていく感覚です。
全世界を平和にする必要はない
もちろん、「全世界を平和にする!」と志を持つ人は、できる人ならやればいいし、目指したい人は目指せばいいでしょう。
ただ、私には「全世界を平和にする」というのはストレスだったわけです。
それに、「私の考える平和が、世界のすべての人に当てはまる平和である。周囲は私の価値観やビジョンに従うべきだ」と、価値観を押しつけるのも嫌ですからね。
私の中では、周囲の人は、周囲の人が考える「平和の形、幸せの形」があるように思うんですよ。
時にそれは、「服従し続けるのではなく、立ち上がり、反抗することが、自分の自立と幸せにつながる」ということもあるように思います。
私は周囲にも、「私と同様に、自分なりの幸せを追求できるし、自分から自分なりの幸せを追求すればいい」と思ってます。
なので、私は「全世界を、私が考える幸福像や、世界平和の形にすること」を手放しています。
たとえ枯れかけたセリでも、難病で死の間際にいる人でも、愚痴ばかり言う人でも、「それが不幸かどうかは分からない。本人は、そこからでも自分なりの幸せを追求できるんじゃないか」と思ってます。
それは「助けたい」と感じることなのか
なら、「その相手の愚痴を聞くこと」が、本当に自分にとって価値あることなのか、「助けたいと感じることなのか」ということです。
で、もし「助けたい」と感じるなら、全身全霊で取り組むのもいいでしょう。
ただ、質問者さんの場合、「愚痴を言う人は、さして相手は困っていない」と実感できているんじゃないかと思います。
共感性が高い人ほど、「相手が苦しんでいる」という感覚を鋭く察するものです。
その場合、「愚痴を言っているのに、相手が苦しんでいない」と分かると、助けたくはならないんですよ(笑
実際に、恵まれた状況に置かれているのに愚痴っている人を見ると、「ただの贅沢やん。もっと感謝しろよ」って感じるでしょ(笑
困っていない人には、助けるモチベーションが出ない
そういう相手を助けようとしても、共感できないから、モチベーションが出ないんですよね。
つまり、助けることに価値を感じられないし、使命感を持てないと。
実際に、共感してあげても、助力をしてあげても、相手は喜ばないものです。
すると「この人を助けても、無駄だな」と感じて、どんなに「愚痴を聞く価値」を作ろうとしても、私たちの喜びになりません。
なら、そういう「困っていない人」を助けるよりも、もっと困っている人やものに目を向けるのもいいように感じます。
すると、「なんとかして価値を見つけ出したい」ではなくて、「なんとかして助けてあげたい」と願えるようになります。
知識や技術は、後からついてくる
なら、知識や技術なんて、後からついてきます。
例えば先述のように「まだ食べられるみかんが、100円で大量にたたき売りされている」という場合、強烈に「もったいない」と感じることがあります。
すると、知識や技術は後からついてくるんですよ。
私たちはそこからみかんについて調べて、研究して、うまくジャムやドライフルーツを作れるようになるんですから。
他の例で言うと、難病を抱えた友人や知人が苦しんでいるのを見ると、強烈に「何か手助けをしたい」と感じるものです。
すると、私たちはそこから「何かできないか」と調べたり、自分の知識や経験、技術から知恵を絞ることができます。
そして、「困っていて、誰からも見捨てられている人」ほど、私たちの小さな助力にも喜んで、感謝してくれるわけです。
なら、私たちは小さな助力でも報われるし、もっと助けたくなると。
そういう「助けたいと感じて、助けて、報われる」という喜びのサイクルですね。
「一時的な仕事」として割り切るのも、一つの手
ひょっとすると、質問者さんは、「今の仕事を維持することが絶対だ」と思い込んでいるのかもしれません。
もしくは、過去に何度も失敗して苦しんで、自信を失って、「今の仕事から価値を見つけ出すしかない」と感じているからかもしれません。
だから、「目の前の人を助けなきゃいけない」と思い込んで、困ってもいない人やものをなんとかしようとしているのかもしれません。
ただ、私の中では、変化する時なんて一瞬ですからね。
「今の仕事は、一時的な仕事として割り切ろう。そして『助けたい』と思えるものを探すことに、より力を配分しよう」とするのも、一つの手かなと思います。
この考え方については、またいつか語ってみようかと思います。
まとめ
そんな風に、価値を見つけ出す前に、「その相手を助けたいか」を考えてみるのもいいかと思います。
「必死で価値を作って与えても、相手は喜ばない」という相手を喜ばせようとしても、無駄ですからね。
むしろ、「本当に苦しんで、悲壮な叫びを上げている人」を見つける方が、使命感を持てるかもしれません。
すると、相手に共感できるようになるし、助けたくなって、そこから自分なりの工夫や方法論が見えてくるかもしれません。
ということで今日は、「愚痴を聞くことに、何か価値を作れないか」と問われて、私ならどう答えるか、というお話でした。
今日はここまで~。