今日は、生き方のお話です。

実は大いに周囲を励ましているのに、肝心の自分自身がその価値に気づけていない、というお話をしてみましょう。

 

SNSを見る時の工夫

時々言ってますが、私はSNSでも、一部の人はフォローするのではなく、「フォローせずに、ブラウザでアカウントをブックマークをする」という形にしているんですよ。

フォローをすると、どうしても自動で情報が流れ込んでくるじゃないですか。

すると、つい気まぐれでSNSを見てしまうと、無意識がノーガードの状態でそこにある感情的な内容に触れてしまって、心が揺れ動かされやすくて。

 

私はそういう、感情的な内容には影響されやすいタイプですからね。

なので、特に感情的な内容も語るアカウントの場合、私は「フォローせずに、ブラウザでアカウントをブックマーク」という形にしています。

そういうワンステップを加えることで、「自分から、この人の情報を見に行く」と心の準備をして、情報に触れるようにしています。

 

感情を素直に出せる人

で、その中で、こういう人がいるんですよ。

その人は素直なタイプというか、「自分の中で、いろんな感情が起きることを、素直に受け入れている」という人です。

変にひねくれた解釈とか、こじれを生むような「こう解釈すれば、ポジティブになる」みたいなことをせずに、素直に「嬉しい、哀しい、楽しい」みたいな感情を表現していて。

 

こじれを持つ人ほど、「怒っちゃダメだ」とか、「哀しんじゃダメだ」みたいに、感情そのものを否定しやすいものですよね。

それは、短期のごまかしができたり、見栄や世間体は保てるんですが、長期では自分の中でこじれを生みやすいものです。

 

でもその人は、その辺の「起きる感情は、それでいい」とできているので、変にこじれることもなく、すがすがしく生きられているんですよ。

なので、「こういう感情を素直に受け入れられる人は、すてきだな」と感じて、私はチェックしているんですが。

 

「自分は価値を作れていない」という思い込み

で、その人は会社勤めをしているわけではなく、独立してなんとか生きているんですが、その人がこういうことを言っていたわけです。

「自分は社会のために、ろくな価値を作れていない。自分はクソ野郎だ」みたいな。

 

もうね、私の中では、「まさか本人が、自分のしている価値に気づいていないなんて!」とびっくりなんですよ。

というのも、その人はすでに大いに周囲を励まして支えているのに、肝心の自分自身がその事実や価値に気づけていないからですね。

 

こういうことって、よくあるように思います。

それが今日の本題でもある、「実は大いに周囲を励まして支えているのに、肝心の自分自身がその事実に気づけていない」ということです。

 

価値には、いろんな形がある

私の中では、価値というものは、いろんな形があるように思います。

で、大きく称賛されることって、価値として分かりやすいですよね。

例えば「人の常識を覆すような、インパクトのある斬新なアイデアや考え方を出すこと」とか、「商品を通じて社会に貢献して、喜ばれること」、「会社で成果を出すこと」、「新人賞や、何らかの賞を得ること」、「褒められること」みたいに。

そういう「分かりやすい称賛」は、いろいろあるかと思います。

 

でもその一方で、「普段の日常で、相手に寄り添うようなこと」も、私の中では十分に価値だと思うんですよ。

例えば日常でつらいことがあった場合、素直にSNSで「こういうことがあった、つらい」と表現すると、周囲が同類の場合、周囲も「確かにつらいよね」と共感できます。

小さな嬉しいことがあって、素直に「こういうことがあって、嬉しい」と言えると、周囲の同類も嬉しくなったりして。

 

すると、そういう素直な感情に触れると、「いろんな感情を味わいつつ、毎日を生きていい」とできて、私たちも癒やされるんですよ。

それは、相手の感情を通して、自分の感情をも受け入れられるからですね。

「怒っちゃいけない、哀しんじゃいけない、頑張らなきゃいけない」と凝り固まった心を緩められて、「それでいいんだ。そう感じていいんだ」と肩の力を抜けると。

 

「SNS上で存在していること」自体にも励まされる

それだけでなく、「その人が今日も生きて、情報発信して、存在していること」自体にも、私たちは励まされることも多いわけです。

「あの人は、今日も自分なりに生きようとしている」と感じられると、私たちも「精一杯生きよう」と励まされるじゃないですか。

 

それに、同類の人がSNS上にいるだけで、なんだか「すぐそばに、その人がいてくれる」みたいな感覚があって、孤独感を防げるものです。

だから、そういう「同類がネット上で、ちまちま情報発信して、今日も存在していること」自体も、実は励みになると。

 

私の中では、そういう日常的で小さなことも、人を支えているし、大いに励ましているように思います。

それは確かに、大きな発見でもないし、斬新な商品や社会貢献でもなく、何かの賞を受賞するようなものでもないかもしれません。

でも、それは確実に周囲の孤独を癒やして、支えていると。

どこかの会社に属して、何か大きなものを成し遂げることだけが、価値ではないわけです。

 

まとめ

これが分かると、「大きな成果だけが、価値ではない」と分かるかと思います。

「今日もあの人は、ネット上にいてくれる」とスマホで触れられるだけで、「すぐそばに、あの人が寄り添ってくれている」という感覚になれて、励まされることもあるように思います。

 

そういう「日常的な寄り添い」も、十分に価値ですよね。

ひょっとすると、そういうのが人の孤独感を癒やして、自殺を防げているのかもしれません。

特に、個性が強いために孤独感を持っている人ほど、そういう「日常的な寄り添い」に励まされているようにも感じます。

 

この価値に気づけると、「自分は存在しているだけでも、価値観を出しているだけでも、十分に誰かを支えている」と分かるかと思います。

すると、「誰もが認めるような、偉大な成果」はむしろ小さなことでしかなくて、「こういう小さなことも、十分に価値だった」と分かって、自分が存在していることの価値に気づけるかもしれません。

 

ということで今日は、実は大いに周囲を励ましているのに、肝心の自分自身がその価値に気づけていない、というお話でした。

今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share