今日は、「世の中の仕組み」と、人間の性質についてのお話です。

「世界平和のために戦う」の矛盾をようやく言語化できるようになったので、説明してみることにしましょう。

 

性質の違いによる、考え方の違い

ここ最近、このブログでは「外向型同士の争い」について高頻度で触れてますよね。

最近の私は、そういう「性質の違いによる、考え方の違い」を見つけるのが面白かったりします。

 

で、昔からすっごい違和感を持っていたんですが、最近になってようやく言語化できるようになった概念があるんですよ。

それが、「世界平和のために戦う」という人たちに対する矛盾です。

 

「世界平和のために戦う」の矛盾

よく、「世界平和のために戦おう!」みたいな人たちがいるじゃないですか。

私はずっと、そういう平和へのデモ活動とか抗議活動を見ていると、なんだかうまく言えない「矛盾感」を味わっていたんですよね。

 

というのも、そもそも「平和」と「戦う」という言葉の組み合わせからして、矛盾してるじゃないですか(笑

他にも、「断固として、徹底して、強く戦争に反対する!」とか言うと、なんだかとても排他的で、自分の考えを相手に押しつけるイメージがあって。

 

なぜ食い違いが起きるのか

私は争いが苦手だし、平穏な方が好きなので、いろいろ考えてしまうんですよ。

「平和を実現したいなら、戦うんじゃなくて、受け入れるポイントを探すのが重要じゃないの?」

「相手の立場を考えることが、戦わない道を模索することになるんじゃないの?」

私の中では、そう感じることが多いわけです。

 

だけど、彼らにとっては、「平和のために戦争をする」が当然だし、違和感がないわけです。

それで、「なぜ彼らは、違和感がなく受け入れられるんだ」と、なんだかうまく言えないけれども、矛盾を感じていたと。

 

で、なぜそういう「常識の食い違い」が起きるのか、今日はそれについて説明してみましょう。

 

「世界」の定義の違い

一言で言うと、「世界」の定義の違いなんですよね。

彼らが言う「世界」は「自分たちの社会」で、私が感じる「世界」は「物理的な世界」でしかないと。

これが分かって、すんなりとその違いを受け入れられたように感じます。

 

私の場合、「世界」と言うと、「この宇宙や地球」みたいな感覚なんですよ。

だから、例えば最近ではウクライナ問題がありますが、私の中ではロシアは「世界の一部」だという認識です。

 

一方で「平和のために戦おう!」と言える人たちにとっては、「世界」は「自分たちの属する社会」を意味します。

だから、「世界平和を実現しよう!」という場合、ロシアは「この世界には、含まれないもの」だということです。

 

認識できる世界の違い

ある意味、「認識できる世界の違い」なのかもしれません。

私たちは、私たちが認識できる領域が、私たちの「世界のすべて」なわけです。

 

なら、彼らの言う「世界」に、ロシアやロシア大統領、ロシア軍人は含まれません

少し極端に言うと、「この地球上には存在しない(存在してはならない)もの」だとも言えるでしょう。

 

そうやって世界を制限して、世界を切り離すことで、「世界平和のために、戦う」ことができると。

だから、「制裁や企業撤退で、ロシア国民を苦しめろ!」と言えるんだろうと思います。

 

「異世界の住人」の例で見てみる

これは、「ロシアは『世界』の一部なのか。ロシア国民は『人間』なのか」という部分での、視野の違いだろうと思います。

 

この違和感を疑似体験するために、こういう状況を想定すると分かりやすいだろうと思います。

例えば、私たちが奴隷制のある異世界に移転させられてしまったとしましょうか。

 

で、その異世界の住人は、奴隷をひどくこき使っています

だけど、そこの住人は、「人には優しくしようね。平和が一番だよ。人は尊重しなきゃ。それが正義だし、人のためだよ」と、なんだか立派なことを言っているわけです。

 

奴隷は「人」なのか

その場合、私たちは違和感を覚えますよね。

「え? でも、あなたたちは奴隷をむち打って、食事もろくに与えず、重労働をさせているじゃないですか」と問いかけたくなるものです。

 

すると、その異世界の住人は、笑顔でこう答えるわけです。

「大丈夫だよ。だって彼らは『人』じゃないから」

 

ちょっと恐ろしいでしょ。

 

「世界」や「人間」の根底となる概念が違う

こういう感覚だろうと思います。

その「世界」や「人間」に対する、根底となる定義が違うわけです。

 

江戸時代の、「えた、非人」と同じようなものです。

現在の私たちは、「人間とは、肌の色とか言語とか、国籍、宗教、思想に関係なく、こういう存在が人間」と思っていますよね。

でも、当時の人たちは、「人はみな尊い」と立派なことを言いつつ、「でも彼らは、人じゃないよ」と一部の人たちを切り離すことで、笑顔で人権を奪えていたわけです。

そして、それが日常だったと。

 

同じように、「世界はみな尊い」と立派なことを言いつつ、ロシアやロシア大統領、ロシア軍人を「でも彼らは世界の一部じゃないよ」と切り離します。

そうすることで、笑顔で「邪魔な存在は殺して、世界平和を実現できる」と。

そして、「これは尊いことだ」と信じて疑わずに、「人の形をしたもの」を殺して、勝利した暁には「ウクライナを解放した!」と熱狂して喜べると。

その恐ろしさですよね。

 

「建前と本音」への感覚

じゃあなぜそんな風に言わなきゃいけないのかというと、そこには「建前(大義)と本音」があるように感じます。

「建前と本音が違って当たり前」か、「本音で生きたい」かという、人の性質の違いだろうと思います。

 

世の中には、「建前と本音があって当然」とするタイプと、「本音で生きるのが当然」というタイプがいるように感じます。

私は前者を「社会維持型」、後者を「境地開拓型」と呼んでいるんですが。

 

建前を大切にするか、本音を大切にするか

で、その建前が大切か、本音が大切か、という違いだろうと思います。

そして本音を受け入れて、本音で生きたいかどうかじゃないかなと。

 

本音は、「自分たちの社会さえよければいい」です。

これは、誰にとっても共通することでしょう。

私自身、世界の裏側で起きている悲劇を救おうとはしませんし、別銀河系の生命で不幸が起きている生命に同情することもありません。

 

ただ私は、本音を出して生きるのが好きだと。

一方で、建前を出すことで、「きらびやかな世界、きらびやかな自分」で生きるのが好きな人たちもいると。

その性質の違いが、そういう「平和のために戦争をする」という建前に対して、矛盾感を与えているんじゃないかと思います。

もちろん、その「建前と本音」の違いに気づかずに、本気で「建前が本音であり、絶対正義である」と信じている人たちもいるでしょうけどね。

 

まとめ

こういう風に考えると、「世界平和のために戦う」という矛盾を、うまく受け入れられるように感じます。

人は視野が違って、彼らにとっての「世界」は、「自分たちの属する社会」でしかない、ということですね。

 

私の中では、誰もが「自分たちの社会さえよければいい」という本音を持っています。

それに素直に生きたいか、建前で取り繕って生きたいか、だろうと思います。

 

なら、「世の中は、そういう『言葉と態度が違う人たち』が多数派だ」と理解できて、世の中の仕組みがより分かるんじゃないかと思います。

そうすることで、世の中を受け入れやすくなるし、対策や対処もできるように感じます。

 

ということで今日は、「世界平和のために戦う」の矛盾をようやく言語化できるようになったので、説明してみました。

今日はここまで~。

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