今日は、生き方のお話です。

「それは本当に現実か」と疑えると、自由になれる、というお話です。

 

「自分はダメな奴だ」は、現実にそうなのか?

私たちって、落ち込んだり、自分を責めたりすることがあるじゃないですか。

「自分はダメな奴だ」とか、「自分は社会のゴミだ」とか感じて、泣きたくなったりするんですが。

私も以前は、よくそういう風に感じて、落ち込んでいたんですよ。

 

でも、最近の私は、ほぼそういうことを考えなくなったんですよね。

なぜかというと、「それは本当に現実か」と疑えるようになったからじゃないかと思います。

 

なので今日は、そんな「現実を疑う」ということについて、お話ししてみようかと思います。

これが分かると、「現実を直視することで、自分の思い込みから逃れる」ことができて、より自由になれるかと思います。

 

「現実」とは何か

私たちって、現実の中で生きているじゃないですか。

でも、私たちが「現実」を正確に把握しているわけではありません

私たちは、いろんな思い込みとか価値観に縛られていることで、現実をゆがめて見ているわけですね。

 

例えば、「私には生きる価値がない」と感じたとしましょうか。

でも、「それは本当に、現実なのか」ということです。

 

一本の草木から、価値を考えてみる

これは、「自分」ではなく、他の生命を見てみると、客観的に現実を認識しやすくなるかと思います。

例えば道ばたでも山でもいいので、雑草とか、木が生えていたとしましょうか。

「なら、その一本の草木には、価値はないのか」ということです。

 

すると、「山に生えている、一本の草や木の意味や価値」に向き合うと、「価値」というものの現実が見えてきます。

これは、人によってはいろいろ感じるかと思います。

一度、自分なりにその価値に向き合ってみるのもいいかと思います。

 

「価値なんて、よく分からない」という現実

ちなみに私の中では、そういうのに触れると、「価値なんて、よく分からない」となるんですよね。

だって、生命が生きていることに、価値があるのかないのかなんて、分からないんですから。

 

すると、「一本の草木は、私という一つの命と同じだ」と分かって、「自分の価値なんて、分からない」と分かります。

「私は価値がある」とか、「無価値だ」ではなく、「よく分からない」という感覚です。

 

私の中では、現実とは「より客観的な立場から見た状態」と定義しています。

だから私にとっては、この「命の価値なんて、よく分からない」というのが、より現実側なんですよ。

 

「現実」では、それぞれが自分なりに生きている

そしてこういう「より現実側」を認識できると、自由になれます。

だって、分からないのなら、「私には価値がある」とも、「価値がない」とも言えませんよね。

ただ、草木を見ていると、それぞれ自分なりに生きているわけで。

すると、「まぁ命があるし、もし神様がいるとするなら、彼ら草木は生きていることを許されているんじゃないかな」と推測できます。

 

なら、「自分は無価値だ」とか、「自分はゴミだ」なんて落ち込むことはなくなります。

同じように、「あなたは素晴らしい!」とか、「あなたは国宝だ!」とか褒められても、浮かれることはなくなります。

だって、自分の価値なんて、よく分からないんですから。

 

だから、「よく分からないけど、草木は自分なりに生きていいように思う。なので自分も、自分なりに豊かに生きられるように向かっていこう」と許せるわけです。

これが私の中での「より現実側(大きな視点から見た判断)」なんですよね。

 

思い込みから抜けだそう

世の中には、いろんな「現実か疑わしい、思い込みでゆがめた現実」があります。

「親を喜ばせなきゃいけない」、「プロにならなきゃ意味がない」、「お金がなきゃ幸せになれない」、「会社勤めしなければ、ダメ人間だ」みたいな。

 

じゃあ、そこで問いかけてみましょう。

「それは本当に、現実にそうなの?」ということです。

すると例外なんて、山ほど見えてくるんじゃないかと思うんですが。

 

そしてそういう「広い視野」で見ることが、「より現実を見ること」じゃないかと思ってます。

だから、「現実を見れば見るほど、知れば知るほど、可能性が見えるし、自由になれる」ということです。

 

実体価値を見抜こう

多くの人が、「そんな夢物語を語らずに、現実を見ろ。そんなことじゃ生きていけないぞ」とか言います。

だけど私からすると、その言葉こそが「現実とは正反対の思い込み」でしかないように思います。

私の中での「現実」とは「限りなく広い視野」だし、その視野で見れば、価値や生き方なんて「分からない」ことが大半なんですから。

 

で、そんな「分からない」で生きる方が、社会の価値やブームに惑わされずに、実体価値を見抜けることも多いんじゃないかな、と思ったりもします。

そして、「自分はダメな奴だ」とか、「自分は素晴らしい人だ」という思い込みから逃れて、自分なりに進めそうに思います。

 

まとめ

なので落ち込んだときとか、自分の価値を見失ったときは、「それは本当に現実か」と疑ってみるのもいいように思います。

「自分に価値はない」なんて、相対的なものでしかありません。

 

私の中では、広い視野で見れば見るほど、「よく分からないよね」になるんですよね。

そして、「自分に価値が欲しい」という人に対しては、「価値はあるよ」と言ってあげるよりも、「価値なんて分からないよね」と言ってあげる方が、効果あることもあるかな、と思ったりもします。

 

すると、現実に即した処置ができるし、分からない部分も「分からないなりに、自分なりに進んでいこう」とできるかもしれません。

 

ということで今日は、「それは本当に現実か」と疑えると、自由になれる、というお話でした。

今日はここまで~。

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