今日は久しぶりに、スピリチュアル的なお話をしてみましょう。
「なぜ前世療法のような非現実的手法が、効果を出しうるのか」ということで、説明してみましょう。
前世療法というトンデモ手法は、なぜあるのか
もうだいぶ前ですが、私が心理学を学んでいた頃、前世療法ってのがあったんですよ。
それは、「自分の前世でこういうことがあったから、今こういうことに苦しんでいる」みたいに前世を明かすことで、心理的な治療をできる、みたいなものです。
私は好奇心が強めなので、そういう見た目が明らかにトンデモ系の本でも、中身を見たくなるわけです(笑
まぁある意味、私はあまり外聞やレッテルで判断しないタイプなのかもしれませんが。
で、私はその中身に触れて、ずっと「ほんまかいな」と思ってたんですよ。
でも最近になって、「あ、前世療法もアリだな」と分かってきたので、それについてお話してみましょう。
行動認知療法を元に、考えてゆく
じゃあなぜ前世療法もアリなのか。
それは、行動認知療法のメカニズムが分かれば、これは理解できます。
心理療法の一つに、行動認知療法というものがあります。
これは、「自分がどう無意識に判断しているのかを明らかにすることで、無意識の判断を変えてゆく」というものです。
以前に「目の前の二択で悩むのは、ほとんど無意味」というお話をしましたが、そこで説明した「無意識に選択肢を選んでいることに気づく」という部分になります。
道を避ける例
例えば、私達は通勤とか通学で、ある道を無意識に避けていたとしましょう。
そっちの道の方が早く目的地につけるのに、私達は無意識で別の道を選んでいるから、気づけないんですよ。
で、行動認知療法では、客観的に見て「そこの道を通ればいいのに、なぜわざわざ迂回するのか?」という無意識の選択に気づかせて、その原因を明かして、行動を変えてゆきます。
すると、実は「幼い頃にその道で事故にあったから、何となくその道を通らなくなった」、「幼い頃にその道で怖い目にあったから、その道を避けるようになった」とか出てくるわけです。
それが分かると、「本当に今も、避ける必要があるんだろうか?」と分かりますよね。
それで、「あ、私は無意識にこの道を避けていた。こっちの道を歩けばいいんだ」と分かって、行動を変えられて、より通勤や通学を楽にできます。
もちろん、その過程では、恐怖もあるわけです。
特に、実際にその道に踏み込む前なんて、「必ずまた事故が起きるわけではない」、「必ずまた怖い目にあうわけではない」と分かっていても、恐ろしいですよね。
それでも少しずつ、小さな模擬訓練などを通して、練習したりすると。
そして実際にその道に入り、無事に通り抜けた時、「あ、この道を通っていいんだ」と世界が変わるわけです。
つまり、自分の中にあった無意識の壁が失われて、より自由になれて、別の行動(生き方)ができるようになると。
電車の例
他の例で言うと、「電車に乗ろうとすると、動悸や吐き気、めまいがして、動けなくなる」という事例があったとしましょう。
すると、なぜそう感じるのかという原因を探っていきます。
なら、「以前に会社でパワハラを受けていたので、電車に乗る=パワハラの苦しみを再体験する」という条件反射ができてしまっていた、みたいに気づいたりすると。
なら、そこでいろんな別の行動や疑似体験を重ねることで、「これをやっても大丈夫だ」という領域を増やしてゆきます。
それによって、「電車に乗れない」という問題を克服しよう、というアプローチですね。
なので認知行動療法では、そういう新たな可能性に気づかせることをします。
「自分は無意識にこの道を選んでいるけど、別の道を選んでもいいよね」、「自分は無意識にこれを避けているけど、これを選んでもいいんだ」、「自分は無意識でこう行動しているけど、別の行動をしてもいいよね」と、明らかにしてゆくわけです。
そうして、その人の未来を、生き方を変えてゆくと。
原因が存在しさえすれば、内容はどうでもいい
実はこの場合、「どんな原因でその道を避けるようになったのか」という原因部分では、原因が存在しさえすれば、内容は結構どうでもいいんですよ。
例えば最初の例でも、「幼い頃にその道で事故にあったから」とか、「幼い頃にその道で怖い目にあったから」という原因がありました。
この「原因の存在」は、必要です。
「こういうことが過去にあったから、それが今まで影響していた」と分かることで、無意識だったものを意識できるようになるんですから。
また、その原因が過去のものであると分かることで、「今もそうとは限らない」と分かって、新たな行動を起こすことに納得できます。
もし原因がなければ、意識に引っかかりにくくなるし、「怖いものは怖いから」で、新たな行動を起こせなくなるわけです。
だから、原因そのものは必要です。
でも、「原因の内容」は、結構どうでもいいんですよ。
例えば「幼い頃にその道で事故にあった」であろうが、「怖い目にあったから」でも、どっちでもいいわけです。
他にも、「そこでヤクザに絡まれたから」とか、「そこで痴漢にあったから」、「そこで貧血で倒れたから」とかでも、問題ありません。
それでも十分に、目的を達せられると分かります。
目的は、「無意識でその道を避けるようになったことに気づかせて、理屈で理解してもらって、別の行動をしてもらう」ことなんですから。
「原因の内容」は、ファンタジーでもいい
なら、その「原因の存在」がありさえすれば、「原因の内容」は無理に真実でなくてもいいと分かります。
大体、「幼い頃にその道で事故にあった」という記憶自体も、真実であるとは限りません。
実はもっと奥深いところに、「もっと幼い頃に、その道で恐怖体験をした」という真実があるかもしれません。
その過去を思い出したくないために、「事故があった」と自分で記憶をすり替えて、本当に苦しい記憶を見ないようにしてきた、ということも普通にありえます。
それでも、その偽りの記憶である「幼い頃に事故があった」を原因としても、人生をより楽にできるんですから。
なら、「原因の内容」は、信じられさえすれば、ファンタジーでもいいですよね。
そこで都合がいいのが、前世です。
前世だと、今とは確実に世界も場所も変わるので、「再びそれが起こる」という可能性は低くなります。
また、今の自分とは全く切り離されている他人事なので、少々苦しい出来事でも受け入れられます。
もちろん「信じられさえすれば」という前提は入りますが、これを使えれば、だいぶリスクが減らせそうだと分かります。
真実を重視して癒やすか、架空でもいいから癒やすか
なら、後は「真実を重視して癒やすか、架空でもいいから癒やすか」というスタンスの違いでしかありません。
もちろん真実をベースにする方が、最高でしょう。
先の電車の例のように、分かりやすくて受け入れやすい真実であれば、真実を使えばいいんですよ。
でも、こういう「過去の真実を正確に掘り返すこと」は、時に無意味に感じることもあるんですよね。
例えば、幼い頃にレイプされたとか、性的虐待を得たとか、精神的虐待を受けいていたとか、膨大な精神的負担を得ることがあります。
それとか、目の前で家族が殺されたとか、自分の間違いで家族を殺してしまったとか、あるんですよ。
そういう場合、その真実を再び思い出させて、再度その苦しみを体験させるのは、とても負担になるわけです。
現実では、心理的な余裕がないことがほとんど
大体、心理療法を受けようとする時点で、現実では心理的な余裕がないことがほとんどですからね。
それは当然で、限界まで苦しんでもダメだから、助けを求めているわけで。
そんな心理的な限界状態で、過去にレイプされたとか、性的虐待を受けた生々しい絶望と苦痛の記憶を、再び掘り起こす必要があるのか、ということです。
場合によっては、その苦しみ自体に耐えきれずに、その人の日常がより壊れてしまう、というリスクもあるわけで。
なら、過去の真実を掘り起こすことに、どれだけ意味があるでしょうか。
真実でなくとも、ファンタジーでも、無意識の行動に気づかせて、行動を変えて、未来を変えることができるわけです。
なら、前世のようなファンタジーを使ってでも、行動を変えてもらえればそれでいいんじゃないか、という発想もありえます。
後は、スタンスの違いでしかない
なら、後はスタンスの違いでしかないかなと思います。
ある意味、真実を重視することは「完全に癒やす方がいい」というスタンスです。
真実に対面して見事に克服する方が、より完璧な癒やしを得られるでしょう。
それとか、電車の例のように、身近で受け入れやすい真実であれば、真実を使えばいいんですよ。
なら、現実との齟齬(そご:食い違い)が生まれることもなく、うまくやっていけます。
一方で「ファンタジーでもいい」とするのは、「多少のごまかしが入っても、残りの人生がより楽になればそれでいい」という、ある程度妥協をしたスタンスですね。
前世のようなファンタジーを使うと、やっぱりその部分で「普通の人」と食い違いが出てしまうわけです。
前世を信じなければ、前世療法はできませんからね。
そしてその「前世を信じているかどうか」という部分で、人とのコミュニケーションに問題が起きるでしょう。
でも、「行動を変えることでそれ以上のメリットが得られるならば、前世関連の齟齬が出てもいいんじゃないか」というスタンスです。
「科学でできなくて、ファンタジーや宗教にできるなら、それを使えばいい」という発想
大体日常生活で、前世について話題に出すなんて、滅多にないでしょ(笑
でも、無意識だった行動を変えることで、日常生活がはるかに楽になるのであれば、「前世という齟齬」は小さな犠牲だと分かります。
小さな犠牲で大きな人生の苦しみから回避できるなら、それでもいいように感じます。
私自身は、非科学だろうがファンタジーだろうが宗教だろうが物語だろうが、救えるならそれを使えばいいと思ってます。
科学的にできるなら、もちろん科学的な方法を選ぶでしょうけどね。
でも、科学でできないなら、ファンタジーとか宗教、物語や音楽を使えばいい、というのが私の好みです。
カウンセリング内容は、一般の目には触れさせない方よさそう
そして、そういうカウンセリング内容は、一般の目には触れさせない方が、私の好みだったりします。
少し前に、アドバイスとカウンセリングの違いでも触れましたが、一般的にカウンセリング内容は、当人には薬になっても、「普通の人」には害になりがちです。
特に前世の存在なんて、普通の人からすると、「そんな架空のことをでっち上げて治療するなんて、詐欺師でしかない!」と感じるものです。
それは当然で、前世なんて言い出すと、普通は変な人に見られるし、トンデモ人間でしかないわけで。
それに、こういうファンタジーは、悪用しようと思えばいくらでも悪用できます。
「この壺を買えば、過去の因果から解放されます」的な詐欺商法が成り立つのも、それが信じられてしまうのも、同じメカニズムです。
で、そんな明らかな詐欺でも時に効果が出ることもあって、それによって被害者が詐欺師を擁護することもあるのも、行動認知療法というメカニズムを使っているからです。
ま、その辺の対策は、普通の医者選びと同じかなと思います。
その辺は、「セカンドオピニオン(別の医者の意見)を得る」みたいな医者選び方法で解決できるでしょう。
まぁ何というか、医者だろうが宗教者だろうが、「私の言うことがが絶対だ」なんて言う人よりも、「私以外にもいろんな意見を参考にして、自分に合うように決めればいいですよ」という人の方が、信じられるものですよね……とか言うと、いろんな宗教から刺客を送られそうなので、これ以上はやめときます(笑
まとめ
こう考えると、前世療法のようなトンデモ方法論でも、意外と効果がありうると分かります。
それは、行動認知療法のメカニズムを理解できれば、分かるんだと。
後は、現実や社会との調和を重視するか、個人の治療を重視するかの、好みの違いですね。
そして、科学と宗教は対立するものではなくて、「人を救う」という同じ目標に向かって協調しうるものだと思ってます。
科学的な手法が好きな人は、どんどん研究して論文を出して、より効果的な手法を開発してもらえばよくて。
一方で、その科学的な手法が仕上がるまでは、ファンタジーだろうが物語だろうが宗教だろうが、漫画や小説、音楽だろうが、効果があるなら使えるものを使えばいいんじゃないかな、と思います。
実際、「苦しい時、この物語で心を救われた」とか、「この曲の歌詞に支えられ、救われた」とか、あるでしょ。
それは思いっきり非科学ですが、私達に力を与えうるものなんですよね。
そう考えると、より幅広く現実を認識できて、受け入れられるかもしれません。
ということで今日は、「なぜ前世療法のような非現実的手法が、効果を出しうるのか」ということで、説明してみました。
今日はここまで~。