今日は、制作活動についての雑記です。

情報発信では、個性を偽って出すことに意味はない、というお話をつらつらと書いてみましょう。

 

ランキングをモチベーションにするVTuberは、遠からず消えていく

去年の記事ですが、「ランキングをモチベーションにするVTuberは、遠からず消えていく」ということを書いたんですよ。

すると先日、まさにそのVTuberが「他にやりたいことができたので、VTuber活動から卒業する」という告知をしていて。

それで、「やっぱりそうなったか」と感じたりしたんですが。

 

実のところ、「他にやりたいことができた」というのは、おそらくそれは批判をかわすためのものでしかないように思います。

だって、他にやりたいことができたなら、それをやりながらVTuber活動もすればいいんですから(笑

 

媒体を消すことに意味はない

そもそも動画配信とか音声配信、ブログやTwitterなどの「発信媒体」は、「媒体(手段)」でしかありません

だから、動画配信やブログは「何をやりたいのか」で影響されるものではないんですよね。

スキーに興味を持ったらスキーについて語ればいいし、小説にハマったら小説について語ればいいと。

 

もし作業量がしんどかったり、スタイルが合わない場合でも、消す必要はないわけです。

更新頻度を落としたり、必要な時になった時だけ使えばいいし、好みや適性に合わせて使い分ければいいだけです。

実際に「動画配信をしながら、ブログやTwitterもやる」と平行させたり、目的に応じて使い分けるのは、普通にあることです。

 

自分を偽って出すから、媒体そのものをやめる

じゃあなぜ媒体そのものを消してやめるのかというと、きっと「自分を偽(いつわ)って出すのが苦しくなったから」じゃないかと思います。

特に冒頭で触れたように、ランキングや周囲からの反応を気にする人ほど、「周囲からウケたい」という気持ちで、自分を偽って見せてしまいます。

 

だけど、周囲からの反応なんて、時と状況次第でいくらでも変わるものなんですよ。

例えばVTuberをするにしても、最初のフォロワーが200~300程度の状態だと、「どんな人が集まるのか」なんて、もうほぼ運でしょ。

もちろんそのフォロワーたちには「新規参入VTuberが好き」という傾向はあるでしょうが、「どんな趣味で、どんなスタイルが好き」なんてフォロワー傾向は、ほぼ運です。

 

ましてや、フォロワーたちが「新人VTuberの好み」を知っていることなんて、まずありません。

それなのに、そういう運で決まるような要素に、自分の性質を決めさせてししまうわけですね。

 

こうして「嘘の苦しみ」が積み上がる

で、自分を偽って出すと、その「偽った自分」を裏切ることができないので、他の部分でも整合性を取らなきゃいけなくなります

例えば本当は恋愛話なんて興味ないのに、フォロワーから「恋愛話をして!」と言われると、「実は恋愛話も好きなんです」と自分を曲げて語ってしまうんですよ。

すると、ゲーム実況でも「恋愛部分には食いつかなきゃいけないかな」とか、雑談でも「その辺を話さなきゃいけないかな」としてしまうわけです。

 

でも、根本の自分自身は、「恋愛なんて興味も何もない」です。

まぁ話しているうちに興味を持つこともあるかもしれませんが、基本的な性質に根ざすものほど変えられないものです。

こうして、作り上げた「偽りの自分」にしんどくなって、「媒体そのものをやめたい」となるわけですね。

 

軌道修正できる人は強い

それでもまだ、自分の偽りを正直に認めて、軌道修正できる人は強いんですよ。

「実は私、恋愛には興味ありませんでした。今までウケを狙ってごめんなさい!」と、自分に向き合って謝罪できる人は、逆に信頼されます。

 

もちろん自分の間違いを認めるのは一時的には苦しいことですが、それを乗り越えると楽になれます。

だって、本来の自分でいられますからね。

 

恥は魅力になる

それに、実はそういう「自分にとっては恥なこと」でも、フォロワーからすると「魅力的な点」になりうるわけです。

そもそも、そういう周囲を気にするタイプは、「ウケ狙いで嘘をつきやすい」という「恥ずかしい点」を持つことになります。

 

なら、そういう恥ずかしい部分を堂々と明かすと、愛されるんですよ。

例えばVTuberでも、「またウケ狙いで嘘をついちゃった!」、「ついウケ狙いで、知ったかぶりをしたくなるよね!」みたいに恥ずかしい部分を含めて堂々と出すわけです。

すると、フォロワーも「それがこの人の個性だ」となると。

つまり、恥は隠すと見栄を張れますが、劣等感なく開けっぴろげに出せば、面白さや強みにできるわけです。

 

恥かどうかは、社会で変わる

その上、そもそもそれが恥かどうかは、社会によって変わります

一つの社会での恥が、別の社会では誇りになることだって多いわけです。

例えば「顔にできた傷」が、美の世界では「醜い傷」になるかもしれませんが、戦士の社会では「戦う勇気ある人の証」になると。

他の例では、「人を欺(あざむ)く気質」は、普通の社会では悪徳ですが、勝負や駆け引き社会では当たり前の素質です。

 

そんな風に、どんな個性であっても、社会次第で価値観なんて変わるわけです。

なら、なぜ初期の運任せの「フォロワー社会」に合わせる必要があるのか、ということです。

 

自分が「恥」か「強み」かを決めている

それなのに、自分が勝手にその個性を「恥」か「強み」かを決めてしまっているわけです。

上記の例で言うと、「恋愛に興味ある方が強みになる」と思い込んでいるし、「ウケ狙いで嘘をつくのは恥」だと思い込んでいると。

 

でも実際は、「恋愛に興味ないことが強み」にもなるし、「ウケ狙いで嘘をついて窮地に陥る状況を、堂々とさらして、半泣きになることが強み」にもなりえると。

そうして「恋愛に興味がなく、ウケ狙いが好きなお調子者」という、「恥ずかしさも含めた強みの個性」を出してもいいわけです。

 

すると、そういう個性が好きな人たちが集まります

そうやって、自分軸に沿ったフォロワー社会ができるものです。

 

つまり、個性はすべて強みになりうるわけですね。

なら、「個性をすべて強みにする」発信者の方が、「みんなが評価する個性だけを、都合よく出す」発信者よりも、楽しんでもらいやすいと分かるかと思います。

そしてこれが分かると、「実は私はこういう人でした」と素直に出して軌道修正できれば、別に媒体をやめる必要はないと分かります。

 

軌道修正するほど、強くなる

だいたい、「軌道修正」=「もっと自分の個性を出す。より強みをより発揮する」ことを意味します。

だから軌道修正するほどフォロワーから理解されるし、信頼されるし、本質を知ってくれた人たちがついてきてくれます。

そして今までのフォロワーたちの中から、継続してファンになってくれる人も、結構出てくるものです。

 

実際に、自分を偽って出していて、それで「ごめんなさい」と謝って素直になったとしても、「だましたな!」と怒る人なんて少ないと思うんですよ。

特に動画配信とかブログなんて、「好きだから見ている」ということが多いですからね。

 

もちろん、嫌々していることとか、不安や恐怖をかき立てられてだまされた場合は腹が立つものです。

でも、VTuberでもブログでも、フォロワーが積極的に「楽しさを得る」ことでだまされているならば、そんなに怒らないものです。

 

自分の過ちに向き合うのが怖いから、媒体から逃げてしまう

なのに、そういう「自分の過ちに向き合うのが怖い」から、疲れ果てるまで自分を偽って、最後には媒体そのものをやめてしまうんじゃないかと思います。

本当は、さっさと軌道修正しても、誰もそのVTuberをとがめたりしないのに。

むしろ軌道修正したら、フォロワーたちはもっと力強く応援してくれるのに。

それなのに、VTuberの本人だけが「自分を偽り、周囲をだました罪」を重罪だと思い込んで偽り続けるし、しかも最後にはその罪から逃げてしまうと。

 

ひょっとすると、その根底には「裁かれる恐怖」があるのかもしれません。

親や上司など、「自分を支配する人たち」から裁かれることが、死につながると思っているわけですね。

そして発信者も、「私はフォロワーたちに支配されている」と思い込んでいるわけです。

 

実際は、発信者は「フォロワーから好かれている存在」

でも実際は、発信者は「フォロワーから好かれている存在」です。

フォロワーは、発信者を支配しようとは思っていません。

例えば私たちだって、誰か俳優とか声優、作家のファンになった場合、「いつもすてきな作品をありがとう!」という気持ちになったとしても、「支配しよう」とは思いませんよね。

 

なのに、発信者が勝手に、「フォロワーたちからは、好かれなければならない」、「フォロワー数を増やすには、フォロワーが好きなことに合わせなければならない(フォロワーが発信者を支配している)」と勘違いしているだけです。

自分の中に「親密な関係は、支配関係だ」と思い込んでいるし、場合によってはそういう関係しか知らないから、惰性でそうしているだけなんだと。

その思い込みに気づくことですね。

 

上記のVTuberも、本当は周囲から愛されていて、優しさに包まれているわけです。

なのに、自分だけが「偽ってごめんなさい」と苦しんで、疲れ果てるまで偽って、そんな「偽った自分」に向き合うことができないから、その「実は愛されている環境」から逃げ出してしまうと。

ある意味、「自分が愛されていることを信じられない」、「愛される場では、間違いが許されることを信じられていない」とも言えるでしょう。

 

自分の個性をそのまま出せばいい

なら、何かを発信する場合、「自分の個性をそのまま出せばいい」と分かります。

それは、個性は「どれも恥になりうる」し、「どれも強みになりうる」からですね。

 

だから「いい個性ばかりを持つかどうか」ではなく、「それぞれの個性を、向いた使い方をしているかどうか」ということです。

もしその個性を「評価しない社会」ばかりに向けて出せば、「誰からも見向きもされないVTuber」とか「クズでゴミなVTuber」になるでしょう。

一方で、その個性を「評価する社会」ばかりに出せば、「最高に面白い、天性の個性に恵まれたVTuber」になるでしょう。

個性は同じなのに、使い方次第でそういう違いが出てしまうと。

 

まとめ

なら、自分を偽って出すことに、さして意味はないと分かるんじゃないかと思います。

個性を変えるのではなく、「どうやって、それを評価する社会に向けて出せばいいのか」が重要になる、ということですね。

 

そして、もし自分が自分を偽っていたならば、「私は自分を偽ってました」と言って、軌道修正すればいいだけです。

それは支配関係では「相手も自分も傷つくこと」ですが、好かれる関係では「相手も自分も、もっと喜べること」になります。

こうして自分に素直になって、なおかつ自分の個性を喜んでくれる人たちに囲まれることができると。

 

特にVTuberみたいに、「自分の個性」を出している場合、軌道修正しても、かなりの率でついてきてくれます。

逆に、「○○を実現する方法」みたいな個性を無視したアカウント名にしているほど、軌道修正は難しくなるでしょう。

 

だからアカウント名やチャンネル名が「自分の名前」を含めて構成されている場合、どんどん変化しても大丈夫です。

むしろ、どんどん軌道修正して、素直になって自分を出す方が、コアなファンができます。

 

すると安心して自分を出せるし、それが強みにもなって、ファン作りにもつながるかなと思います。

 

ということで今日は、「情報発信では、個性を偽って出すことに意味はない」という雑記でした。

今日はここまで~。

 

余談

そして最初に紹介したVTuberなんですが、その後にちょっと面白いことがあったんですよ。

そのVTuberはちょっとしたチームに属しているんですが、その人の卒業発表と時を同じくして、そのチームで新人VTuberが登場してきて。

そしてそれが、「ちょっと狂気を感じるぐらいの、自分の個性を出すタイプの人」だったと(笑

 

私の中では、そういう「狂気を出せる」ぐらいの人の方が、発信者としては合うように思います。

それは、「純度を薄める」のは楽にできますが、「純度を高める」のは難しいからですね。

狂気とは純度とも言えるので、狂気を出せるほど、潜在的な可能性があるようにも思います。

 

これが分かると、「安心して狂気を出せばいい」とできて、好き放題できるかもしれません(笑

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