一昨日、昨日と「食物アレルギーだったことが発覚しちゃった!」と語ってきましたが、今日はその経験で気がついたことを語ってみましょうか。
食べることが不便になったことで、人生を考えてしまったので、そのお話です。
あ、前もって言っておくと、今回は常識とは全くかけ離れたことを言います(笑
普通の人なら、「私はこれだけ苦しみました。失って初めて分かる苦しさがあるんですよ。みなさんも、それを持っている今の豊かさを味わいましょう」、なーんて美談を語るかもしれません。
ですが私の場合、今回は「食べられなくなるって、結構面白いよ? みんなもやってみようよ!」ってノリのお話をします(笑
食べられるものがなくなってゆくのは、どういう感覚か
私はここ半年で、食べられるものが極めて限られるようになったんですよ。
まずは糖質制限を始めたことで、お米、パン、麺類、砂糖の入ったもの、果物、根菜類を食べなくなりました。
はっきり言って、これだけで、世の中にある2/3のものは口にできなくなったようなものですね。
で、今回のアレルギー発覚で、発覚してから検査結果が出るまでは、卵とか乳、ナッツ類などの、アレルギー疑いがあるものは、一切口にしなかったんですよ。
これが、約1ヶ月間ですね。
この1ヶ月間は、肉、魚、葉物の野菜、キノコなど、「食べられるもの」を数える方が早いぐらいで。
それぐらい食べられるものが限られたことを人に話すと、大抵が「不便でしょう」とか「大変ですね」とか言うわけです。
でも実は、私にとっては、全然不便でもなくて、むしろ面白いぐらいだったんですよ。
自由度が高いことと、幸せとは相関するのか
ここでちょっと考えてみましょう。
「自由度が高いこと」と「幸せ」は相関するのか、ということですね。
簡単に言うと、「何でも便利にできる方が、楽しくて幸せに過ごせるのか」ってことです。
これを語るときに思い出すのが、「五体不満足」で有名な乙武洋匡(おとたけひろただ)さんですね。
この人の本で、印象に残っていた内容があるんですよ。
それが、彼は両腕両足がなくて、よく「不便でしょう」とか「大変ですね」と言われるって言うんですよ。
でも、本人は全然不便とも大変だとも感じていないわけです。
だって、生まれた時からそうだったんですから。
「もし途中で失えばそう感じるのかもしれないけれども、僕は生まれてから一度も、この体を不便だと感じたことはない」って言っていたわけです。
私の場合、まさにそれと同じ感覚だったんですよね。
私は自分の意志で糖質制限を始めたわけですが、炭水化物を食べなくなって、超調子がいいんですよ。
すると、「炭水化物なしで、美味しく食べるにはどうしたらいいだろう?」と考えるようになって、それで最近は料理にはまって、そしてハーブとかスパイスにはまったわけです。
イタリアンハーブとか、やたら詳しくなりましたから(笑
他にも、肉料理のレシピとか、今までよりもはるかに幅が広がりましたし、料理の腕も上がったんですよね。
アレルギーが発覚した後は、さらに魚料理に詳しくなって、魚の種類とか料理方法も深く知るようになって、これがまた面白いんですよ。
すなわち、ジャンルを限れば限るほど、今まででは到達できなかったような深みを知って、その分野の面白さを知ったわけです。
物語でも、恋愛ものとかバトルもの、アクション、サスペンス、ホラーとか、いっぱいジャンルがあるものですよね。
じゃあ、「なーんでも知っている」という楽しみ方と、「私は恋愛物語を極めたい」という楽しみ方と、どっちが幸せなのか、ということです。
これは、どちらがいいとは言えませんよね。
それどころか、ずーっと全ジャンルを浅く楽しんでいると、途中で「こんなもんか」って飽きてくるんですよね。
それならむしろ、「今年は恋愛ものをディープに極めよう。来年はサスペンスを」みたいに、あえてジャンルを限って深く楽しむ方が、楽しむ幅が増えることもあるかもしれません。
結局のところ、「目的」に帰着する
これは結局のところ、「目的」に帰着するように思えます。
一体、何のためにするのか、ということですね。
「何でもできる」は、裏返すと「何にもできない」ってことですよね。
「一つしかできない」は、裏返すと「それができる」ということです。
そして、人生において「私はこれをしたい」という行動を起こすということは、ある意味「他の選択肢を捨てる」、「可能性を絞り込む」とも言えます。
もし、「生きている間、全ての可能性を持っていたい」という人がいたら、その人は一生で、何もできずに終わるでしょう。
何かを「選ぶ」ということは、「他の可能性を捨てる」ってことですからね。
「この人と付き合おう」とか「この人と結婚しよう」と思えば、「他の人と付き合ったり結婚する可能性を捨てる」ってことになるわけです。
で、目的さえ持っていれば、自由度なんてさして重要ではなくなるんですよ。
例えば私の場合、ウォーキングが趣味ですが、もし私が両足を失ったらどうなるのか。
おそらく私は、車椅子になったなら「車椅子でも回れるルートを見つけよう」とか、義足になったなら「義足でも歩けるルートを探そう」みたいにして、ウォーキングを楽しもうとしていることでしょう。
料理も同じで、私の場合は、「制作で最高のパフォーマンスを発揮するために、健康を維持すること」が一番で、次に「味を楽しむこと」という二つの目的があるわけです。
その目的さえ持っていれば、自由度なんてさほど関係ないわけです。
限られた中で、もっと深く味わえばいいだけなんですから。
むしろ、目的があるからこそ、糖質制限という制限を加えて、健康度と楽しみを増やせたんですよね。
なぜ人生は面白くなくなるのか
以前も触れましたが、なぜ人生が面白くないのかというと、自分の努力が、「自分の実生活をよくしている」、という実感がないからです。
自分の努力が、少しずつでも自分の実生活をよくしていれば、俄然人生は面白くなるものです。
例えば、立派な住む家がある状態で「家を造ろう」としても、「なんでそんなことする必要があるんだよ」って思いますよね。
全然モチベーションが上がらないものです。
それは、「必要ない」からなんですよ。
でも、無人島に流れ着いたとき、家も何もない状態で、「家が欲しい」と思ったらどうでしょう。
きっと、すごく高いモチベーションで、熱中して家を造るでしょう。
そして、完成した家は、たとえ掘っ立て小屋のようなぼろっちいものでも、充実感があり、満足度も高いでしょう。
だって、今までの吹きさらしで寝るよりも、はるかに環境がよくなって、人生をよくしているんですから。
すると、さらには、「もっとこうしよう」みたいに、工夫を重ねていけて、楽しめるものです。
鉄腕DASHのDASH村の面白さって、まさにその面白さだったでしょ。
すなわち、なぜモチベーション高くできて、かつ面白いと感じるかというと、それは「必要だから」です。
つまりは、目的を持っていて、自分の努力が自分の実生活をダイレクトによくなる、そういう実感があったとき、人生は楽しく、面白くなるわけです。
仕事がつまらないとか、人生がつまらないというのは、そういうものを持っていないからなんですよ。
ならば、「自由度が高い」ことは、幸せとはさほど関係がないと分かりますよね。
ひょっとすると、自由度が高いことによって、「可能性を失いたくないがために、何もできない」という状態に陥っているかもしれません。
「必要だから」がモチベーションを生む
そう考えると、人生初期で背負う苦しみとか哀しみ、不自由さ、制約条件というのは、幸せとはさほど関係ないと分かるでしょう。
むしろ、それがあって初めて、人生の指針を得られるように思えます。
例えば私の場合、強い劣等感に苦しんでいたわけです。
すると、それがゲーム制作に熱中することになったり、クリエイティブなことを好きになって、しかも劣等感を解決する方法まで見つけたわけですから。
だって、それは「必要だったから」ですね。
私は生きるために、心理学とか、劣等感を解決することが必要だったんですよ。
私がハーブやスパイスにはまったのも、料理にはまったのも、全部、食べられるものの幅が狭まって、「必要だったから」です。
だから、楽しく、モチベーション高く、クリエイティビティーを発揮できたんですよ。
それは、制約があったからこそ、生み出されたモチベーションなんですよね。
ある病にかかった人は、人生で「その病を根絶できる、薬を開発しよう」と思うかもしれません。
その生き方は、なーんにも目的を持たずに、ダラダラと過ごす退屈な毎日よりも、よっぽど充実しているように思えます。
その強烈な使命感やモチベーションというのは、多くの人が「そういうものを、私も持ちたい」とあこがれるものになるんじゃないかと思います。
「最高に便利な状態」は、モチベーションを生まない
私はこのたとえをよく言いますが、「最高に便利な状態」というのは、イスに座っていたら、全てが手に入る状態かなと思います。
ボタン一つでピザでもジュースでも美味しい食べ物が届いて、目の前のテレビでは、膨大なチャンネルがあって、ボタン一つで最高のエンターテイメントを見せてくれる。
ボタン一つで世界中を飛び回れて、世界各国の風景を見られる。
歩く必要もなく、手を動かす必要もなく、食事も排泄もその場でできて、何もかもが楽にできる状態。
それはある人にとっては最高の幸せかもしれませんが、私にとっては地獄なんですよね。
だって、そこには「モチベーション」なんてものは、カケラもないでしょ。
「やる気のない人生の、どこが面白いのか」、そう感じたりもするわけです。
「私はこうしたい」、「こういう風なことを実現したい」、そういうものを持って、悪戦苦闘しながらも作り上げていくからこそ、面白いんでしょ。
すなわち、「クリエイティブである」という本質は、そういう「実現する面白さ」です。
「必要だから、やる」わけです。
決して、「楽しませてもらう」ではないんですよ。
世の中にある楽しみをどんなに見つけ出しても、世の中の風景をどんなに見て回っても、この「実現する面白さ」にはかなわないんじゃないかと思ってます。
それは、野口英世みたいな医療を志す人が、あえて過酷なアフリカに向かうようなものです。
「こうしたい」という強い願いを持つ人は、あえてしんどい道を選ぶんですよ。
そして、苦しみを経ながらも、人に喜んでもらうわけです。
ある意味、アホでしょ(笑
テレビの前に座って、世界中の風景や楽しいことを見ながら、ピザとコーラを食べて、ぶくぶく太っても生きていけるような生き方をする方が、圧倒的に「楽」ですよね。
でも、「目的」というのは、それを全て吹っ飛ばす力があるわけです。
「制約があること」は「苦しいこと」なのか
そういう志を持てるかどうか、ですよね。
「楽をしていきたい」という人は、それはそれでいいんですよ。
ただ、「そんなの、何が面白いの?」という感覚を持つ人もいる、ということです。
そして私は、そういう感覚で生きている、ということです。
きっと、そういう人を「クリエイター」と呼ぶのかもしれません。
クリエイティビティーを発揮して、自分の願うことを実現しようとする。
それは、あえて苦しい道や、制約のある道を選ぶことなのかもしれません。
でも、実はそれが楽しいことであり、充実していることなんですよね。
それは、あえてアフリカに向かう医者の気持ちと同じです。
ならば、「自由度が高いこと」と、「幸せ」とは、相関性があるとは限らないことが分かりますよね。
むしろ、自由度を捨てて一つを選ぶことで、見えてくる使命や方向性だってあるわけです。
乙武さんが五体不満足だからといって、不幸でないのと同じです。
彼は、「目的」を持っているんですから。
その前では、自由度なんてさして関係ないんですよ。
まとめ
だから、不便になることを、恐れる必要なんかないんじゃないかと思います。
アレルギーで食べられる種類が減ったところで、実は不便でもなければ、大変でもないんですよ。
ただ、「その方向に向かえばいい」だけなんですから。
両足を失えば、「その方向に向かえばいい」だけです。
だったら、失うことを恐れる必要なんて、何もないと分かりますよね。
どんな状況でも、目的さえ持っていれば、クリエイティビティーを発揮できて、楽しめるんですから。
そういうことを、今回のアレルギーで感じたりもしました。
だから、「食べられなくなるって、結構面白いよ? もしやったことないなら、みんなもやってみようよ!」ってことですね(笑
実際、そうやってあえて制限してみることで、初めて見える道もある、ということです。
ま、ここ3日間ほど続いたアレルギー話も、今回で一段落です。
ってことで、今回のお話はここまでっ。