今日は、考え方についてのお話をしてみましょうか。

なぜ私は「人を変えようとしない」、「人は変えられない」と思うようになったのか、というお話です。

 

「変えようとしても、変えられない」という環境が私を作った

このブログを見てくださっている方ならだいたい分かるかと思いますが、私はあんまり「他の人を変えよう」とはしないんですよ。

「世の中はこうすべきだ」、「この人はこうすべきだ」とか、押しつけることは言いませんよね。

「こういう場合、こうするといいよ」とか、「こうしたいなら、こうすればいいよ」という、「自分を変える」という方法を分かち合うアプローチをしているものです。

私は基本的に、「世の中は変わらない、変えられない」という前提で、「その流れの中で、自分にとっての要望をできるだけ多く実現できるようにしよう」、「望む人だけに与えていこう」というスタンスです。

 

なら、なぜこういうスタンスになったのかと考えてみると、私が「末っ子だったから」というのが大きいかもしれません。

私は三人兄弟の末っ子で、私だけが年が離れていたんですよ。

上と7歳、5歳差ですからね。

全員男兄弟で、利害関係が絡む場合は、確実に「実力差」で決まるわけです(笑

そんな中で、「7歳差、5歳差」って、戦って勝つには絶望的な差ですから。

 

私の場合、要望を通したいと思っても、力じゃ敵わないんですよ。

それに、正論を言っても、「うるさい」で殴られて終わりなわけです(笑

子どもの5~7歳差って、ケンカにもなりませんから(笑

だから、私は「兄弟」という競争社会の中で、圧倒的な弱者だったわけです。

 

でも、幼い私は必死なので、どうにかして自分の要望を実現しようとひたすら工夫するようになったんですよ。

そういう環境があったから、「人を変える」のではなく、「自分を変える」ことに意識を向けるようになったのかと思います。

 

そしてそれが、私が「弱者が生き抜く方法」とか、「圧倒的弱者の状態から、頭角を現す方法」に強い理由かもしれません。

うちのスタッフさんだって、次々とプロになっていますよね。

なぜか、関わった人がプロになったり、社長になったり、独立したり、有名になっていっちゃうんですよ。

私自身も、能力もお金もコネも何もない状態から、今では遊んで暮らせるようになっていますし。

 

幼い頃から強烈な制約の中で、もがいていたおかげで、今の私があるのかな、と思ったりもします。

実際、同じ家庭で育っても、上の二人の兄は好きでもない仕事を苦しみながらしてますからね。

そう考えると、「末っ子だった」という環境が私を作ったと言えるでしょう。

 

人を変えたい場合、どうするのか

でも、それでも人を変えたいこともあるでしょう。

そういう場合、どうするのか。

一つ言えるのは、もし他の人を変えたい場合でも、「変わるべきだ」なんて言っても、変わらないんですよ。

実際に、相手に「こうすべきだ」って言っても、ほとんどの場合、変わらないでしょ(笑

「動かす」ことはできても、「変える」ことはできないんですよ。

 

例えば私の兄は、私に「こうすべきだ」とか、「これを買ってこい」と命令できるわけです。

だって、従わないと私は殴られますからね(笑

力の差があって、利害があることで、私は動かざるを得なくなるわけです。

 

でも、私は心の中では反発しているわけです(笑

「いつか立場をひっくり返してやる」みたいな(笑

すなわち、私の行動を操ることはできても、「変える」ことはできないわけです。

 

当時の私は、圧倒的な力差を前にして、苦しんだわけです。

力では敵わない。正論でも通じない。卑怯なことをすると、後が怖い。

ならば、後は、智恵を使って切り抜けるしかない。

力では不可能でも、智恵なら逆転が可能になる。

7歳差、5歳差でも通用してひっくり返せるほどの、圧倒的な智恵を。

なら、どうするのか。

 

時々ニュースとかで、「こうすべきだ」って名指しで相手を批判するような人が取り上げられるじゃないですか。

そういうのを見る度に、「つたないな」って思うんですよ。

というのも、そんなことをしても、敵側に結束力を与えるだけで、メリットはほとんどないわけです。

 

もし私が人を変えようとする場合、相手の動機や根本的な欲求を握って、それを満たすように仕向けるでしょう。

すなわち、「舌戦」や「戦い」なんてものはしません。

相手の「心理的な弱み」を握ることで、相手が私に敵意を向けることなく、相手が自発的にそう思うように仕向けた形で、かつ私が一切関わっていないかのように見せかけて、相手を動かすことで、私は自分の欲求を実現するわけです。

結構高度でしょ(笑

私はこういうのを、生まれた時からしていたわけです。

そうでなければ、厳しい兄弟戦争を生き抜けなかったんですから(笑

 

これを痛いほど知っているから、私は人に「こうすべきだ」って押しつけないのかなと思います。

それに、人から「貴方はこうすべきだ」って押しつけられるのって、なんか嫌ですよね。

私自身が、押しつけられるのが嫌だから、それをしないのかもしれません。

 

まとめ

そういう流れで、私が「人を変えようとしない」、「人は変えられない」と思うようになったと言えるでしょう。

実際に、いったん家族という拘束から自由になれば、他の人を変えようとするよりも、自分のアプローチを変えた方がはるかに早く、楽に欲求を実現しやすいんですよ。

「相手の心理的な弱みを握って、敵意を向けさせないように準備して、カモフラージュして願いを実現する」とか、面倒でたまりませんから(笑

だから、対立も起きないし、戦いもしないと。

平和でいいでしょ。

 

そして、まずは自分を一番最初に、最高に豊かにするわけです。

その後で、それらのノウハウなどを、「欲しい」という同じ境遇で苦しんでいる人たちに、どんどん分かち合っていく、という感じですかね。

 

そういう点でも、このブログはやっぱり「弱者が力をつける」とか、「全く力がない状態から、自分の欲求を実現して、満たされた状態にしてゆく」という話題や方法が多いんじゃないかと思います。

すなわち、「クリエイティビティーで解決しよう」、という発想になっているんだと。

力ではなく、工夫で解決する、ということですね。

で、これからもそういうお話をしてゆくと思うので、興味ある方は是非どうぞ、ということです。

 

ま、そんな感じで、なぜ私が人を変えようとしなくなったのか、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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